PART TWO CHAPTER 3 ブンカー1あるいは「赤い家」とその想定される大量の遺体埋葬地

この資料は、ジャン・クロード・プレサックの『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』を翻訳したものです。

phdn.org

 目次 - アウシュビッツ ガス室の技術と操作 J-C・プレサック著

特定のページのリンクを貼りたい場合は、

このページのURL + #p + 三桁のページ番号

としてください。

[例:チクロンBの取扱説明書のあるページ(Page018)を指定したい場合]

https://holocaust.hatenadiary.com/entry/2020/08/21/031127#p018

Page161

CHAPTER 3 ブンカー1(赤い家)とその集団墓地と思われる場所

ルドルフ・ヘス、ペリー・ブロード、スラマ・ドラゴン、モーリス・ベンルビ、ミルトン・ブキ、モシェ・ガルバルツの証言によるブンカー1とその集団墓地、後の火葬ピットの研究。

註:このチャプターと次のチャプターで扱う「ブンカー」は、英語及びドイツ語表記が同じで、「bunker」であるが、これは一般的に日本語ではその英語発音から「バンカー」と表記されるものである。しかし、日本ではアウシュヴィッツ・ビルケナウにおける最初のユダヤ人絶滅用ガス室のことを「ブンカー」と表記するのが通例のようである。ドイツ語を日本語表記する場合、ドイツ語発音に近い表記にする慣例に基づいていると考えられるが、意味は英語の場合の「バンカー」に同じなので、「ブンカー」と表記されているからと言って、英語と違った特別な意味を持つわけではない。しかし、アウシュヴィッツ自体を含めホロコースト(あるいは同時代に関連した話題)を扱う場合、他でも「bunker」というドイツ語はしばしば扱われており(例えばアウシュヴィッツ基幹収容所にあるブロック11の地下室や、ビルケナウのクレマトリウムⅡ、Ⅲの地下室(脱衣所、ガス室)のことを「bunker」と表記している場合がある)、アウシュヴィッツ・ビルケナウのそれを区別する意味で「ブンカー」と呼んだ方がいいのかもしれないと考え、この翻訳上でも「ブンカー」と表記することにした。


Ⅰ/ 目撃者スラマ・ドラゴンの供述書

[Extract from Volume II of the Hoess trial Volume 11 of the Hoess trial, annex 17]

1945年5月10日、ヤン・セーン判事によって記録された、ブンカー1に関する宣誓供述書。

註:このスラマ・ドラゴンの宣誓供述書はこちらで全文を読むことができます。

ブンカー2から500メートル(実際は800メートル)先に、ブンカー1と呼ばれるもう一つのコテージがありました。これもレンガ造りの小さな家で、2つに分かれていて、2000人の裸の人間を収容することができました。[目撃者による明白な誇張、事実上、すべての初期の記述の中で規則的である。ヘスは800人という数字をあげている:死の「技術者」である彼は、「職業的プライド」によって数字をごまかす傾向があったとしても、自分が何を言っているのかを理解していた]これらの部屋には、それぞれ入り口のドアが1つ、小さな窓が1つありました。ブンカー1の近くには、小さな納屋と小屋が2つありました。ピットはもっと先にありました。このブンカー[1]とは狭軌のレールで結ばれていました。

彼の供述に付け加えられたS.ドラゴンによるブンカー1の図面[資料1]は、ブンカー1の床が周囲の土地より高いことを示している。彼の供述では、ドアにつながる2組の階段は言及されていない。

 

f:id:hotelsekininsya:20200902170123j:plain

資料1

Plan of “Bunker” No.

上記資料内の文字の翻訳

  • Annexe au protocole d’interrogatoire du témoin Szlamy Dragon les 10 et 11 V 1945 /1945年5月10日と11日の証人スラマ・ドラゴンの宣誓供述書の附属書    
  • portes étanches au gaz /  ガス気密ドア
  • chambers à gaz, bunker / ガス室、ブンカー      
  • lucarnes où l’on jetait le zyklon /チクロンが投げ込まれた窓      
  • escaliers / 階段   

 

Page162

II/ 親衛隊員ペリーブロードの証言

私は、記憶のために、PMOが『Auschwitz seen by the SS(SSが見たアウシュヴィッツ)』に掲載した「ペリー・ブロードの宣言」だけを引用する。歴史的には、この記述は、ポーランド人によって、ポーランド人のために書き換えられ、彼らによってのみ流布されているので、その「真実」、あまりにも「印象的」な雰囲気にもかかわらず、現在の版では利用することができない。1945年12月14日の文書NI 11397は、この「宣言」が持っていたに違いない正確なトーンの一瞬の印象を与えるだけである。1945年6月13日に英国諜報機関に提出した、ポーランド「宣言」の根拠となった彼の有名な証言については、「英国にあると思われる原本をPMOは持っていない」と、博物館主任アーキビストは断言した。私は、1945年6月13日の最初の記述のコピーさえ見たことがないので、翻訳者のヘレナ・ジエジンスカがどのようなドイツ語の「原文」を使ったのか疑問に思っている、博物館はそれを保管していない。さらに、ペリー・ブロードは、その原文でさえも、絶滅施設の観察者としては不十分であったのではないかと思う。彼はブンカー1、2についてこう説明している。 

ビルケナウからそう遠くないところに、小奇麗な農民小屋が2棟建っていた。雑木林を隔てて、白壁に茅葺き屋根がかかっている。周囲には果樹が植えられていた。

この文章には間違いがある。雑木林は800メートルもある、まさに森である。ブロードの証言は、何よりも収容所でのいくつかの印象的な出来事の年代記であり、ブンカーとクレマトリウムについての正確な詳細を提供することができないのである。その信頼性を評価した上で、良心的な歴史家は、「宣言」からポーランドの影響が取り除かれない限り、言い換えれば、オリジナルが公開されない限り、それを利用することはできないだろう。

 

III/ ブンカー1に関するモーリス・ベンルビの証言

1914年12月27日ギリシャのサロニカ生まれ、1942年7月16日にルマンで逮捕、1942年7月20日にアンジェからフランスの輸送第8号で強制移送され(「Le Mémorial de la deportation des juifs de France(フランスのユダヤ人強制移送の記念碑)」参照)、1942年7月23日木曜日にアウシュビッツ・ビケナウに到着、51,059番で登録、1945年1月17日にヤヴィシッツ収容所から退去した。

歴史的メモ

囚人51.059のモーリス・ベンルビは、知らないうちに「墓掘り人夫」と呼ばれる集団に組み込まれていたのである。自分の仕事場に行くために、彼はビルケナウIの入り口ゲートを通り、北西の方向に進み、将来のビルケナウIIを横切り、実質的にクレマトリウムIVとVが建設される予定だった場所に入り、森に入って、ようやくビルケンヴァルト(白樺林)の中心にあるブンカー1の墓に到達した。

ガス処理と埋葬は、担当のSSが独自の基準で決定し、厳密に分けて行われた。1942年当時、犠牲者の火葬は、SSがこの問題を真剣に検討し始めていたにもかかわらず、資源不足のために、まだ大規模には行われていなかった(トプフ&サンズが提案した、「特別行動浴場」(第1、第2ブンカーの正式名称)の近くに火葬炉を迅速に建設する1942年8月21日のプロジェクト参照)。

ガス処刑された人々の死体は、ワゴンのシャーシに固定された2メートル×3メートルの木の台に乗せられた。この死体運搬車約20台が、ブンカー1から西へ、白樺の森へと狭軌のレールを走った。300~400メートル進むと、レールは集団墓地が掘られた広大な空き地に出た。大きさは20×3×2.5メートルで、数十から百個はあって、消石灰などの消毒剤を一切使わず、頭から足まで寝かせたものだった。満杯になった墓は薄く土をかぶせて、そのままにしておいた。ベンルビによると、墓でも第1ブンカーの2つのガス室でも、特別な臭いは感じられなかったという。ベンルビの場合、40日間もシャワーを浴びずに生活していたのだから、臭いに敏感でないのは当然だろう。しかし、1942年7月のヒムラーのビルケナウ視察をきっかけに、収容所司令官ヘスが、ヘセル少尉とデジャコ少尉を伴って、1942年9月16日にネルのヘウムノ[クルムホフ]センターで火葬の技術について学ぶ「学習」訪問を行っている。その結果、1942年11月、ビルケナウの墓はすべて空にされ、腐敗の進んだ人骨も焼却された。ビルケナウ収容所は、その創設からこの日までの間に、すべての起源と死因を合わせて、すでに107,000人の命を奪っている、とヘス司令官は自伝で述べている。

1942年7月に始まった「選別」の後、アウシュヴィッツ駅の「ユダヤ人用ランプ」からブンカー1、2への輸送はトラックで行われた。

1942年末から1943年初めに取り壊されたブンカー1の跡はない。この仮設について、私たちに届いている情報は、わずかな生存者の証言に基づくもので、乏しい。普通の農家の部屋をガス室にして、窓を大まかに密閉し、ガス気密ドアを取り付け、そのドアの横の壁に、頭の高さほどのところにシャッターをつけた小さな開口部をつくったのである。この開口部からチクロンBが注入された。

1972年にウィーンで行われたデジャコとアートルの裁判での複数の証人によると、建設管理部はこの設備のための建築図面を作成していなかったという。

ヘスだけが、自分で秘密裡に描いたようである。自伝[『アウシュヴィッツ司令官』207-8頁]の中で、彼は、1941年9月初めに、アイヒマンと一緒に、次のように語っている。

私たちは、その場所を探すために、周辺を調査した。私たちは、後にビルケナウの三番目の建設地区となる場所の北西の角にある農民の農家が、[ガス処刑に]もっとも適していると判断した。森や生け垣に遮られ、鉄道からも遠くなく、孤立した場所だった。遺体は、近くの草原に掘られた長く深い穴に入れることができた。その時はまだ、死体を焼くという発想はなかった。当時あった建物の防毒処理をした上で、適当なガスで約800人を同時に殺すことができると計算したのである。この数字は、後に現実のものとなった......

と言い、さらにこう続ける。

数日後、私は親衛隊全国指導者に詳細な位置図と設置場所[ブンカー1]の説明を宅配便で送った。私の報告書について、承認も決定も受けたことはない。アイヒマンによると、親衛隊全国指導者は私の提案に同意していたそうだ。

 この書簡は現在も見つかっていない。

ヒムラーの遅くて間接的な回答は、純粋に形式的なものであった。ヘスに対する彼の本当の回答は、手紙が彼の計画を送った1ヶ月後に、アウシュヴィッツ建設管理部の責任者として親衛隊大尉ビショフが到着したことであった。ヒムラーは、アウシュビッツの「特別活動」を成功裏に展開するヘスの能力についての評価は正しかったが、「弟子」のある種の資質については幻想を抱いていなかった。アイヒマンは、1957年にブエノスアイレスでジャーナリストのサッセンに口述した回顧録で、このことを確認している。

一般に、ヘスは確かにアウシュビッツの複雑な状況をすべてコントロールするには限界があったが、そのために彼は完全な参謀を持っていた。

モーリス・ベンルビの証言

私たちは収容所を後にしました。小さな空き地、小さな森を通り抜けました。約300メートルごとに監視塔がありました。突然、一人の強制移送者が隊列を離れて、「Nein, nein/いやだ、いやだ、収容所に帰りたい」と叫びながら収容所の方向へ走り出したのです。私たちは立ち止まり、SS隊員が彼に戻ってくるように叫びました。彼は従わなかったので、SSが彼を撃ちました。4人の強制移送者が彼を迎えに行きました。300メートル先で、もう一人の強制移送者が最初の強制移送者と全く同じことをしました。私は何も理解できませんでした... [ベンルビ氏は強制移送当時、ドイツ語、イディッシュ語ポーランド語を話せず、理解もできなかったことを指摘しておく。フランス語、スペイン語ギリシャ語しか知らなかった彼は、自分のことを「火の中にいる聾唖者」と表現している。何が起こったのか、後になってから気づくことが多い] 

 

...10分後、遠くに大きな死体の山が見えました。まるで近くに死の工場があるようでした。近づくと、よく見えるようになりました。みんな木偶の坊のように混ざって、頬が破れている人もいました。金歯は抜かれていました。女性や子供、赤ちゃんもいました。

200メートルほど行進して、空き地で立ち止まりました。そこには2人のSS隊員がいて、SS隊員に命令していました。さらに、約100名のゾンダーコマンド隊員が、車輪のついた3m×2mの台(ブンカー1の2つのガス室ビルケンヴァルトの最初の墓を結ぶ狭軌の鉄道に沿って)を押しており、これらの台には、死体が一つずつ横たわり、それらを縦20m、横3m、深さ2.50mの墓の前に置いていました。

殉教者を受け入れるための墓が10基ほど用意されていました。また、その平行には、土で覆われた部分が約300メートルにわたって続いています。覆われてからまだ日が浅いのでしょう。土の上にはところどころ、血の混じった明るい色の腐敗した脂肪がぽたぽたと落ちています。命令を受けたカポは、私たちをグループに分けました。ピックやシャベルを持って、墓の中に飛び込んだ仲間もいました。私はというと、他の仲間たちと一緒に、彼らのように死体を運ぶためのゾンダーコマンドに入りました。ゾンダーコマンドの男たちは、私たちを石を投げて迎え、いろいろな名前で呼びました。彼らは犯罪者のように笑い、楽しみ、SSを喜ばせるために自分たちを共犯者にしたのです。基本的に、それは、ナチス政権......すべて一体のものだったのです。

このコマンドでは、カポ、SS、ゾンダーコマンドの全員が私たちを殴り、私たちの恐怖を笑うために死体の山に投げつけました。SSは私たちに発砲し、毎日、夜の点呼で数えるために、暗殺した仲間を収容所に連れて行かなければなりませんでした。

 

正午になると、ゾンダーコマンドは別々に食事をし、私たちは彼らから遠く離れた場所で、ほぼ2倍の配給量と少しのジャガイモを食べました。また、護送されてきた人たちのパンが配られましたが、古く、カビが生えているものまでありました。カビの生えていないパンをカビの生えたパンと交換し、量を増やした同志もいました。喉が渇いていた私たちは、すぐに飛び降りて水を汲み、またすぐに外に出ました。私たちは獣のような状態になってしまいました...

 

ある朝、私たちはほとんど到着しておらず、ピックやシャベルを手に取る準備をしていたのですが、私たちを待っていたSSが、衛兵に行進を続け、彼についていくように命じました。空き地全体を横切り、荷車が到着した道を進むと...

別の空き地に到着しました。幅20メートル以上、長さ何メートルもある大きなコンクリートブロックが2つありました(「ブンカー1」と呼ばれる建物)。このブロックの近くに、3つの遺体の山がありました。男性、女性、10歳以下の子供。

ゾンダーコマンドの男たちは、前回同様、投石や罵声を浴びせながら私たちを迎え入れました。私たちは死体の山の前で立ち止まり、カポスに、死体を荷車のプラットフォームに載せて、空の墓まで運ばなければならないことを理解させられました。私たちは荷車に駆け寄り、狂ったように働き始めました...最も重要なことは、ガス室から逃げることでした...

ある朝、ブンカーと呼ばれる建物の扉が開いていました。シャワーヘッドがあり、壁には洋服掛けがあることに気がつきました。 仲間が「絶対にそっちを見てはいけない」と手話で教えてくれたのを覚えています。それは、「衛兵に撃たれたくなかったら、見るな」という意味でもありました。実際、仲間たちは皆、ブンカーに背を向けて、2つの絶滅用ブンカーに一瞥もくれずに作業しているのが見えました......

ある日、仕事に出ると、電気屋が空の墓のそばに街灯を設置し、大きなランプを取り付けているのが見えました。すぐに、夜勤もあるんだ...と気づきました。

同じ日、1942年9月4日、点呼の後、「選別」があった。いつもは選別があるたびに起こることですが、今回はナチスが最も強く、最も健康な者を選んだのです。

出発までたっぷり1時間待ちました。ある仲間が私に言いました。「私たちの間で何をしているんだ? ゾンダーコマンドで働く者は隊列から外さないという命令を聞いたのに?」呆気にとられた...

2時間の行軍の後、ヤヴィシュヴィッツ収容所(註:アウシュヴィッツ収容所の副収容所)に到着しました。

 

Page163

f:id:hotelsekininsya:20200902213056j:plain

資料2
ブンカー1と集団墓地の位置を示す状況説明図
註:プレサックは特に書いていないが、この図面が当時あったわけではなく、当時のビルケナウの図面に右側のブンカーの位置に関する表記をプレサックが付け加えた図面である。

図面内文字の翻訳

(上から下、左から右へ)

  • Bauabschnitt 2 für 60,000 Gef /  建設ステージII、60,000人の囚人用     
  • Kläranlage / 下水処理場       
  • Desinfektion u Entwesungsanlage / 蒸気及び青酸による害虫駆除施設     
  • Effektanlager / 荷物物品収容所 
  • Appelplatz / パレード場(点呼広場)    
  • Krematorium IV   1 Achtmuffelofen / 8マッフル炉1基      
  • Krematorium V     1 Achtmuffelofen / 8マッフル炉1基      
  • Blockführerstube / ブロック長の部屋      
  • Zone probable d'implantation du Bunker 1 /  ブンカー1の設置場所と思われる地域       
  • Vers les fosses / 集団墓地へ      
  • Bauabschnitt 3 3 für 60,000 Gef /  建設ステージIII、60,000人の囚人用

その他の詳細

ベンルビ氏とは、磁気テープに録音された会話をした。これらの追加情報は、本人の口から語られたもの、あるいは質問されたことに答えたものである。以下はブンカー1のガス室に到着、犠牲者を受け入れるところからの話である。 

約50~60人の子供たちは、5人一組で手をつなぎ、私服の強制移送者の10人ほどと一緒にブンカーに到着し、一緒にいることを喜んでいました。赤ん坊を抱いている人もいましたが、ゾンダーコマンドは彼らを助け、ガス室の数百メートル手前から、家族の一員を迎える時のような親しげな態度で、彼らの方へ進んで行きました。

強制移送者に自信を持たせ、シャワー室、すなわちガス室に静かに入らせるために、ゾンダーコマンドの匪賊は白い服を着て、あたかも病院勤務に属しているかのように振る舞ったのです。

ブンカー1では:

ブンカーはレンガ造りの家で、窓は埋め尽くされていました...死体を拾うときはブンカーに背を向けて、決してガス室は見ないようにしなければなりませんでした…

それでも、あえて見てみると:

20メートル先には、開いたままのロール式かスライド式のドアがあり、その片側には1階のドアがあり、そこからシャワーヘッドが見えました。裏側からは、何も書いていません。ゾンダーコマンドはガス室から人々を取り出し、20メートル離れたところで、女性、次に子供、老人と別々の山にしました。

ガス室の周りにも、墓の周りにも、脂肪がにじみ出てるにもかかわらず、臭いはありません。

 

IV/ ミルトン・ブキの証言
(旧名 マジェック・ミハル)

1980年12月15日、エルサレムで公証人に提出された宣誓書(番号623/80)。ブンカー1に関する抜粋。

1942年12月10日、私はドイツ軍に逮捕され、アウシュビッツに移送され、同月12日に到着しました。

翌朝5時、数人の男に連れられたSS隊員が私たちに外に出るように命じ、森のはずれにあるレンガ造りの農家に連れて行きました。この家の前には、撃たれた男の死体が40体ほどありました。これを狭軌のレールに載せた台車に積んでいくのです。すると、その家のドアがSSの男によって開けられました。内部は死体だらけで、横たわっているもの、立っているもの、互いにぶら下がっているものなどがありました。ドアが開いてから20分か30分くらいして、遺体を取り出して台車に乗せるようにとの指示がありました。

遺体はすべて裸で、青い染みがついているものもありました。トロッコに乗って、家から100m(実際は300~400m)ほどのところにある、長さ40m、幅6mほどの墓に向かいました。墓の前に、もう一組の強制移送者がいて、死体を穴に投げ入れたたのです...私たちは「ゾンダーコマンド」と呼ばれるグループの一員で、ガス処刑された人々の遺体を墓場まで運ぶのが仕事だと知りました。

最初はガスがかかってから家に連れて行かれましたが、その後は一群が到着した時にはもう家にいました。この条件下で、私はその一部始終を見ることができたのです。男も女も子供も、家のそばの小屋で服を脱がされました。そして、犬を連れたSSの2つの隊列の間を、とても速く歩いたり、走ったりしなければなりません。こうして、二人は家の開いているドアにたどり着き、中に入っていきました。消毒のためのシャワーで、その後、収容所に入り、通常の条件で働けるようになると言われました。内部が完全に埋まったところで、ドアを閉めました。メンゲレ医師はしばしば[同席]していましたし、別の医師が代わって、SS隊員にガス注入の命令を出していました。そのために、彼は家の側壁のそばの数段の階段を上り、小さな煙突[開口部]から、ナイフで開けた缶の中身を導入したのです。ガス注入から約20分後にドアが開けられ、30分後に遺体の搬出作業が開始されました。11ブロックに戻された後、墓の中で遺体を焼き尽くす炎を見ることができました.....

この証人は確かに自分がブンカー1で働いていたことを知らなかったが、二つの詳細がそれを証明している。「赤レンガのコテージ」、これが赤い家であり、チクロンBが導入された開口部にアクセスするために登る「いくつかの階段」は、S. ドラゴンが報告していない詳細ですが、彼の図面で確認されている。証人は、一つのガス室と一つのアクセス・ドアについて述べている。ブンカー1の図面を見ると、下と左に位置する観察者は、一つのドア(D1)と毒ガス導入のための一つの側面開口部(01)だけを見ることができることがわかる。ガス処刑はK1室で行われた。証人が示したブンカー1での滞在期間、1942年12月は正しい。1942年11月以前は、遺体は焼却されなかったが、その後焼却されるようになった。

 

V/ モーシェ・モーリス・ガルバルツの証言

息子のエリーとともに執筆し、1984年にパリのエディション・プロン社から『生存者(Un Survivant)』というタイトルで出版された。ベンルビと同じように、ガルバルツもブンカー1の作業から逃れ、ヤヴィシュヴィッツ炭鉱の作業員として働くことになった。以下、『Un Survivant』より抜粋。

(1) 鉱山への出発[119ページ]

7日目には、私は脱出の最後の望みを失い、もうだめだ、追い詰められた...夕方、なぜか私たちは少し早く収容所に戻ってきた。親衛隊は仕事が多くて、我々をあそこでぶらぶらさせるのを避けたかったのかもしれない。ゲートをくぐったところで、キャンプの拡声器からアナウンスが流れた。

 

Page164

「炭鉱でボランティアを募集しているが、7人の電気技師は名乗り出てはならない」

私にとっては、今のコマンドを出るか、そこで死ぬかの二者択一だったのだ。ガスに覆われ、真っ赤になった泥の中でもがく犠牲者を見るのは、本当に耐え難いことで、気分が悪くなった。私は決心した。「もし捕まったら、残念だ! 私は死ぬんだ!」と。

SSの医師の前に並ばされた。私たちは服を脱いで、医師が私たちが「ムゼルマン」でないこと、つまり臀部に肉が残っていることを確認した。しかも、幅50~60センチの溝を飛び越えさせられた。私にとっては子供の遊びだが、強制移送された人たちは皆、そうはいかなかった。幸いなことに、SSはそこにおらず、さもなくば、彼に見つかってしまうところであった。

しかし、ベンルビ氏が、実は不幸だと思っていた自分の「運」に気づいていないのに対して、ガルバルツ氏はちゃんとわかっていた。1942年9月4日から、2人はお互いを知ることなく、ほとんど隣り合わせで仕事をするようになった。

[『Un Survivant』より抜粋。

 

(2) ゾンダーコマンド[109から115ページ] 

ある朝、電気屋コマンドの仕事が中断された。点検である。我々は5人ではなく、1列に並ばなければならなかった。SSがやってきた。彼は、私とグレステン(後のヤヴィシュヴィッツの電気技師長)を含む7人の強制移送者を選んだ。私たち7人は、どんな仕事が待っているのか見当もつかなかった。分かっていたのは電気工事だということだけである。私は怖かった。「これで、私が電気のことを何も知らない、素人だ、下手くそだと見抜かれてしまう」と。

SSは、私たちが本物の商人であるかどうかは尋ねなかった。私は他にも不思議なことに気づいた。こんな小さなコマンドは見たことがない、7人だ! しかも、カポの代わりにSSが、それも普通のSSではなく、軍曹に相当すると思われる親衛隊伍長が入って...

しかし、私の新しいコマンドに戻ると、SSは私たちの3メートル先を行進していた。襲われるのを恐れたのか、それとも単に私たちの臭いを吸わないようにしたのかは分からない。習慣に反して、彼は何も言わなかった。彼は、私たちの行進が遅すぎるとか、間違っているとか、そういうことを非難したわけではない。もし私がSSを知らなかったら、この人は他の人と同じ人間で、殺し、拷問するための機械ではないと思っていただろう。

一度だけ、行進の途中で、彼は親しげに、あまりにも親しげに、まるで父親が子供に語りかけるような声で、私たちの将来の特権について説明してくれたことがあった。 私たちはそれぞれ、タバコ3本とビール1本、あるいは好きな飲み物(そこの水はひどかった)1本を手に入れた。お腹いっぱい食べて、1週間後にはうまく働けば新しい服がもらえ、体を洗う正式な権利も得られるのだから、これ以上の運命はないだろう。

到着した7人は、一言も言葉を交わすことなく、SSがなぜあれほど慈悲深いのか理解した。とたんに胃袋がひっくり返った。幅20~30メートル、長さ50~60メートルの大きな長方形が地面に描かれているのが見えたのだ。そのうちの1つは、地面が赤く染まっていた。真ん中には、リフレクターのついた柱が3本、規則正しい間隔で立っている。2つ目の長方形は、地面にシンプルな輪郭が描かれ、土は普通の色で、支柱の代わりに3つの穴が掘られていた。 

SSは、「 ここ(1つ目の長方形の柱を指差す)に設置されているのが見えるだろう。 あそこ(2つ目の長方形を示す)にも同じものがある。お前たちは電気工事士だ、早くやれ」と説明した。そして、30〜40メートルほど後退した。わからないが、おそらく、前のコマンドは反乱を起こしたのでは?

私たちは仕事を始めた。7人のチームには、本物のプロフェッショナルしかいない。一人は、支柱の上に上がるための特別なフックを与えられていた。電気を切り、電線と反射板を降ろし、支柱を引き抜く体勢を整えた。そして、赤の中にもぐりこんで、赤は血となった。最初にそれに触れたとき、私たちは戦慄を覚え、話す力を失った。でも、私たちはすでにそれを知っていたのだ。しかし、知ることと体験することでは、比較にならない。私たちの足元には、私たちのような男たちがいて、きっと7人の先達のチームも足元にいて......

我々は3本の支柱を運び、すでに掘られていた穴に挟み込み、反射板を設置した。この最初の日、私たちはほとんど3時間しか働かなかった。そして、食事をする小屋の中に閉じこもった。外の様子を見ることは禁じられていた。

2日目は、我々は1日目より少し早めに現地入りした。我々は、besonderkommando(同志と私はイディッシュ語でそう呼んだ:ドイツ語ではSonderkommando「特別なコマンド」)が仕事を終えるまで離れた場所で待たなければならなかった。

日が経つにつれて、伍長は私たちの監視をますます怠るようになった。なぜって? 逃げ出すことは不可能だったからだ。だから、私たちは何もしようとせずに、すべてを見たのである。

三方を閉じた納屋のようなもので、農家が干し草を保管しているのと同じものだ。そこから遠くないところに、田舎の家のような小さな建物が3つか4つ見えたが、最初の建物だけははっきりと見えるほど近くにあった

大人の男性と小さな男の子が一緒に、女性も女の子も赤ちゃんも一緒に、車列が到着した。彼らは全裸のまま、20人ほどのグループで小さな家に向かっていった。距離があるにもかかわらず、怖がっていないのがわかる。白衣に身を包んだ見知らぬコマンドが彼らを率いていた。男だけ4人、それにSSが2人。人が家の中に入ると、かなり頑丈なドアで閉め切られた。

ドアがボルトでしっかり閉められたところで、SSが缶(私が見た缶はまさにペンキのポットのようだった)を持って通過し、家に隠れて我々の目から消えてしまったのだ。そのとき、「バーン」という音がした。窓というより、仕掛け扉のようなものが開く音だ。この音の後、SHEMA ISRAEL(「聞けイスラエルよ、永遠は我らの神、永遠は一つである」というユダヤ教の基本的な祈り)という祈りが2回聞こえ、その後、叫び声が、しかし非常にかすかに聞こえた。

時折、扉の向こうに消えていく直前、人々は理解した。ある集団が反乱を起こすのを見た。この事件は予見されていた。4、5人のコマンド隊が入り口のそばで待機していて、彼らを中に押し込み、SSがリボルバーで何人かの頭を撃った。

小さな家の外観はごく普通のもので、このような事件は非常にまれであった。7日間で、私がこの目で見たのは1回だけだった。しかし、それ以外にも何回か、遠くから至近距離から同じように特徴的な銃声が聞こえた。

しかし、話を2日目の朝に戻そう。前日、支柱を設置した長方形は掘り起こされ、深さ1メートル50ほどの、縁がきれいに切られた空のプールのような場所になっていた。支柱が倒れないように、周囲には地面が残されている。

小さな家から1メートルのところに、手すりがいくつか設置された。ユダヤ人がガス処刑されると、すぐに新しいチームがやって来て、プールの端まで手すりを付けた。このグループもbesonderkommandoに所属していた。このコマンドの男たちは、よく食べた。ちゃんとした服を着ている。彼らは完全に別々に生活し、私たちの収容所に寝に帰ることもなくなった。SSは、1週間後に一緒に登録されることになると言っていた。

私たちは、特別コマンド隊がプラットフォームトロッコをレールに乗せるのを見た。そして、ガスを浴びた男性、女性、子供たちをこの平らな貨車に乗せるために連れてきた。途中で紛失しないように、小麦粉の袋のように横に5つ、縦に5つ積み上げた。 仕事は厳しく、カポ(ドイツ人)は休む暇もなく、叫んでばかりいた。「Schneller! Schneller! (早くしろ!早くしろ!)さもないと殺すぞ、その場でガスだ」と言って蹴りを入れた。男も女も子供も皆、あっという間に穴の中に放り込まれ、土で覆われた。

そして、人の血にまみれながら、街灯を回収する作業に入った。なぜ、死体が血を流すのか、私には理解できなかった。土を盛った時の圧力か? それともガスの影響? 6人の仲間は、ほぼ新品の靴をもらっていた。というのも、私の山靴はまだ大丈夫だったからだ。

夜になると、別のコマンドで新しいプールを掘りに来た。というのも、翌朝、到着した私たちはそれを見つけたからだ。私はこのコマンドを見たことはないが、ある同志は、かつてこの任務を持つグループにいたと言っていた。彼は、他の200人ほどの強制移送者とともに、小屋から連れ去られた。彼らはbesonderkommandoのものではなく、収容所のもので、この穴の目的を推し量ることはできなかった。

4日目、私たちはガス室の入り口で特別コマンドに近づくことを許可された。私たちが見たものは衝撃的だった。家族全員で束になって抱き合っている。死んだ子供たちはまだ母親にしがみついており、彼らを引き離すのは恐ろしい作業だった。全員が目を膨らませ、恐怖に歪んだ顔をしていた。 その日、彼らは子供たちを連れた女性たちを輸送してきたのだ。そのほとんどが子供の首を絞めているようで、子供の苦悩を見るのは耐え難いことだと理解できた。彼らは、自分たちの手で殺して苦しみを短くすることを好んだのだ。

besonderkommandoの男たちにとっても、それは同じことだったのだろう。その中で、偶然にも母親や姉、父親や妻など、家族の一員に会うことを想像したのだ。彼に何ができたか? 何もない。

ある日、電気技師のグラステインが電線を修理するために、ある小さな家に入り、私たちに言った。「内部は何もなく、窓もなくとても暗い。怖くて詳しく見ている暇はなかった」

私たちの位置からは、犠牲者が最も近いガス室の近くに到着した瞬間だけ見ることができた。納屋で服を脱いだと考える人もいたが、私はそうは思わなかった。そこには、色別に分けられた大量の髪、人形、眼鏡、衣服など、あらゆるものが整然と並べられていたはずだ。それが罠だと気づくはずだ。さらに、女性たちは人前で服を脱ぐことを拒否するようになる。いや、私の考えでは、少し離れたところに、私たちの目から見えないように小屋があり、そこから服を脱いで、中身を見ることなく納屋の裏を通ったのでは......と思うのだ。

最近、私はガス室に関する記憶をひとつにまとめようとしている。しかし、私の頭の中では、それらは一連の写真として、はっきりと固定されているように見える。1つずつ見ることはできても、論理的に並べることが難しい。

それで、その穴は巨大で、数千人のユダヤ人を葬るために設計された。いずれにせよ、死体が少ししかなければ、地面が血に染まることはなかっただろう。さて、4軒の家、1軒あたり20人では、このような遊泳プールを満たすには十分ではない。

besonderは夜の間働いていたと思う。私たちが見たのは最後の犠牲者のグループだけで、前の犠牲者はすでに墓に埋められていた。しかし、この説明は、私のもう一つの記憶と一致しない。ある朝、到着した私は、墓の端に行った。後ずさりさせられたが、奥まで見てみると、やはり空っぽだった。あの夜がそうだったと思う、 その墓は、収容所で死んだ仲間の死体で埋め尽くされるだけなのだ。遺体を処理する必要があり、当時はまだクレマトリウムが完成していなかった。

これらの小さなガス室は、ビルケナウに設置された最初のタイプのものに属していた。その後、工業用ガス室に取って代わられ、一度に1000人が焼却され、埋葬されずにすぐにクレマトリウムに移された。私は幸いにもその場に居合わせたわけではなく、間接的に知らされただけである。

一方、私は目撃者であるエルコ・ハジュブルム(49269番の囚人で、ピティヴィエではなくボーヌ・アル・ロランから来た)の口から、死体用のプールに何が起こったかを学んだ。私は彼にその話を託す。

クレマトリウムの最初の炉が稼働すると、犠牲者は焼かれるために搬出された。私は、何千人もの死者を掘り起こすコマンドに参加していた。

腐敗した体と泥が混ざった中をかき分けて進む。ガスマスクを持っていればよかった。死体は、まるで地面が欲していないかのように、地表に上がってくるようだった。モーリス、君が経験したことは、それ以外の何ものでもない。一週間後、私は自分がおかしくなったと思い、周りの多くの同志がしたように、自分を死なせて自殺しようと決心した。

私は、ビルケナウの大きな選別センターであるカナダで働いていた友人に救われたのだ。彼は、ガス処刑されたユダヤ人から衣服や身の回りのものが出てくるのを見るのが耐えられなかったのだ。彼は、レンガ職人のコマンドにインストラクターとして入ることに成功し、私にその場所を与えてくれたのである。

その2カ月後、私はまだ死者の埋葬に従事している強制移送者に出会った。もう泥はない。地面が凍っているのだ。土も死体もツルハシで砕かなければならなかった。

 

Page165

VI/ ブンカー1の床面積(ルドルフ・ヘス

ヘス司令官によると、ブンカー1は800人、ブンカー2は総面積が105㎡、実効面積が90㎡の広さで1200人、つまり1㎡あたり13人の犠牲者を収容することができるという。これは誇張された数字で、1㎡あたり8-10人しか押し込むことができないからである。実際には、ブンカー2が「吸収」したのは700〜900人にも満たない。しかし、ヘスが示した数字がどちらも同じ割合で誇張されていると仮定すれば、ブンカー1の有効床面積は、その容量を1㎡あたりの人数で割ると、60㎡となり、壁を含めた総面積は70㎡弱となり、450〜600人の犠牲者を一括して収容できるに過ぎない。

 

結論

ブンカー1に対する有効なアプローチを採用しようと、私は2人のSSと4人の元囚人の計6人の証人を引用した。

  1. ルドルフ・ヘスは、ブンカー1の起源についてだけ語っている。彼によると、農家を改造したものと2つの脱衣小屋からなる施設の直接の発案者であった。収容人員800名。
  2. ペリー・ブロードはブンカー1と2を記述したことはなく、実際には証明できるようにブンカー2のみ、つまり白い家のみ(複数)を記述している。
  3. スラマ・ドラゴンは、ブンカー2に勤務していたので、この場所を完全に知っていたが、ブンカー1については数行を費やしただけで、ほとんど訪れていないことになる。しかし、彼はブンカー1と呼ばれる部隊について、2つのガス室に改造された小さな家、小さな納屋、2つの小屋という正確な説明をした唯一の人物である。他のいくつかの証言に照らしてみると、健全と思われていたこの記述は、ある種の慎重さを要求するものである。
  4. モーリス・ベンルビは、ブンカー1が、一つ以上のガス室がある「二つのブロック」だけで構成されていると述べている。しかし、(赤い色の)「レンガの家」と呼ばれるブンカーから300〜400メートル離れていることから、ブンカー1のことを指しているのは間違いない。
  5. 1980年までのミルトン・ブキの記憶では、「レンガ造りの農家」と数段の階段、そして少し離れたところにある集団墓地だけであった。これらのことから、彼が言っていたのはブンカー1であることは間違いないだろう。
  6. モーシェ・ガルバルツは、墓の前で作業していたので、ブンカーを非常に遠くにしか見ることができず、私は彼の説明を位置づけるのに長い間躊躇した。それはブンカー1、あるいはブンカー2だったのか? S.ドラゴンの供述と一致する点が1つ(納屋の存在)あるため、1を支持することにした。歴史的に見れば、これだけでは十分とはいえないが、慎重を期して、ブンカー1が関与していたというテーゼを補強する2つの要因がある:白衣を着た奇妙なゾンダーコマンドと、ベンルビ氏が述べた事実、夜の仕事のためのランプの組み立てに参加したことである。しかし、ガルバルツ氏の説明がブンカー1に関するものであることを認めるには、荷車が通行するのに十分な幅(したがって、幅6、7メートル)の直線道路が森に切り開かれていて、ブンカー1とその墓の二つの場所を直接見ることができたことを認めなければならない。ベンルビ氏の発言は、彼の主張を裏付けるものではなく、むしろ矛盾しているようにさえ思える。もう一つの手がかりは、観測距離であるブンカー1であることだ。ブンカー2とその墓のエリアでは、最大50~100メートルの範囲で直接観察することができる。400メートルから400メートルの距離であれば、この目撃者の証言はよりよく説明できるだろう。 納屋のほかに、1軒あたり20人程度、全部で80人を一度に処理できる小さなガス室があった2、3軒の家についても言及している。これは、R.ヘスが提唱した800という数字とは程遠い。 最後に、ガルバルツ氏の証言は決して初期のものではなく、彼の著書は1984年のものであることを強調しておきたい。

これらの説明を総合的に判断することは不可能である。ブンカーIと関連施設の図面があれば、個人的な印象は多く含まれているが、ガス室に関する正確な詳細がほとんどない証言の価値を判断することができるだろう。1942年当時、この参加者たちは、自分たちが信じられないようなエピソードを目撃し、それを語るために生きている「特権的な数人」になるとは想像もつかなかったことだろう。彼らが知っていたのは、飢えと寒さ、そして自分の身を守りたいという願いだけだった。それ以外は存在しなかった。

図面はヘスが描いた状況図以外はなく、ブンカー1は廃墟を残すことなく慎重に解体されたようだ。資料的な痕跡がなければ、ブンカー1の位置[資料2]、内部配置[資料l]、各別棟の配置は明確に解明されることはないだろう。その目的、ガス処刑による人間の絶滅は、元捕虜の証言の中で同一のプロセスが同意して繰り返されていることだけでも、疑問を呈することはできない。ただし、ある悪意の修正主義者のように、目撃者はSSも含めてすべて嘘をついていたと主張するのでなければ、の話ではあるが。

 

ブンカー1にあったとされる集団墓地
その後火葬場になったピットは
実際は下水のデカンテーション用の貯水池

ビルケナウ収容所の計画図[資料3]は、ヘルマン・ラングバインの著書『アウシュヴィッツ裁判』(Der Auschwitz Prozess)から引用した「Les chambres à gaz ont existe」[ガス室は存在した]でG・ウェラーズが提示したもの]930 931頁。

ビルケナウの他の図面と比較すると、多くの細部に関して、非常に平凡な品質であることがわかる。私は、1965年当時、そして現在も、歴史家がブンカー1とその焼却溝を位置づけるのに苦労していること、そしてその結果生じうる誤りを示すために、この写真をここに提示したのである。

資料4と5、図面2534(2)[文書6]と3386[文書7]は、これらがBA.IIIの将来の下水処理場の建設を待つ間に排水溝Fと一緒に掘られた仮の下水のデカンテーションの池であることを疑いなく証明している。この下水処理場は実際には完成していない。

埋葬コマンドの生存者の証言により、ブンカー1の墓は南ではなく西に300~400メートル離れており、視界から隠すために実際に白樺林の中に掘られたことが分かっている。

図面2534(2)には、方向も状況も示されていないことがわかるが、下水処理場IIIの第二計画区間を示す図面3386を参照すると、ビルケナウの第三建設段階の西端にあるGraben[排水溝]Fに近いところに、四つの流域を配置することができる。写真1でも、この盆地の位置が確認できる。写真2では、盆地の先端に、図面3386に示されたBestehender Weg[既存道路]がある。

私は、G. ウェラーズによって複製されたラングバインの『Auschwitz-Prozess』の計画図を紹介したが、それは、彼らの著書が健全で誠実であり、K.L. アウシュヴィッツ史の古典となっているので、「改竄」を非難するためではなく、ささいな点においても誤った解釈を正すことがいかに難しいかを説明するためのものであった。この場合、2枚の写真と2枚の図面が必要である。

 

Page166

資料3
ビルケナウの計画図

キャプション:収容所の計画図。左側はクレマトリウムとガス室
(ラングバイン、『Der Auschwitz Prozess』、pp. 930 931より)

f:id:hotelsekininsya:20200903165505j:plain
図面内の文字の翻訳
(上から下へ、左から右へ)
  • Bunker 1 (Gaskammer) / ブンカーI (ガス室)      
  • Verbrennungsstätte and Sallemgräber / 火葬場と集団墓地       
  • Krematorium V      
  • Krematorium IV      
  • Sauna / 「Zentral Sauna」消毒設備      
  • “Kanada” / カナダ荷物物品整理作業上     
  • Kläranlage / 下水処理場       
  • Krematoroium III       
  • Krematorium II       
  • Kläranlage / 下水処理場      
  • Teilweise ausgebaut, sogennante “Mexiko” / 一部完成、通称「メキシコ」
  • Neue Rampe / 新しいランプ(強制移送者の降車場)      
  • Kartoffelbunker / じゃがいも貯蔵庫      
  • SS Hundestaffel / SSの犬の調教場      
  • SS Unterkünfte / SS 宿泊施設      
  • Kommandanture / 収容所本部
  • SS Unterkünfte / SS 宿泊施設      
  • Nach Auschwitz / アウシュヴィッツへ      
  • Zum Bahnhof Auschwitz / アウシュヴィッツ駅へ
              und zur alten Rampe / と旧ランプへ     
  • Haupttor / メインゲート

 

Page167

f:id:hotelsekininsya:20200903170600j:plain

資料5a
資料4[P1]と資料5[P2]の撮影者の位置を示す1944年3月23日付図面3764の断片。
図面内に文字の翻訳
  • Bauabschnitt 3 für 60,000 Gef / 6万人の囚人のための建設ステージIII
  • Graben F /  排水溝F      
  • Provisorische Erdbecken / 仮説の土坑

 

Page168

資料4 [写真1/P1]
[Photo PMO neg. no. 20995/456] 

最西端の仮設デカンテーション用の土坑の南北の眺め。左端には、B.IIIの西側、排水溝Fに沿って建設された3棟の「Unterkunft u. Effektenbaracke, Wäsche/宿泊施設と物品庫、リネン」の北端と西側がある。

 

f:id:hotelsekininsya:20200903171753j:plain

資料5 [写真 2/P2]:
[Photo PMO neg. no. 20995/457]

ビルケナウIIIの4つの仮設土坑のうちの1つの南北の眺め。流域を横断する木製の整備橋はまだ設置されていない。背景は図面3386に記載されている「既存の道路」である。これらの盆地は、現在でも写真に写っているように、木や潅木が生い茂った状態で見ることができる。

 

Page169

f:id:hotelsekininsya:20200903172345j:plain

資料6:
Drawing 2534(2) [PMO neg. no. 20943/19]  

Kläranlage K.G.L. B.A. III BW 18
下水処理施設 PWO収容所 ビルケナウⅢ BW 18
PROVISORISCHE ERDBECKEN Kläranlage III / 仮設土坑、下水処理場III
縮尺 1:200  

1943年6月15日に囚人23346が描いた図面2524(2)、チェック者は不明、1943年7月5日にビショフが承認。

図面内の文字の翻訳

  • Die Höhen sind auf Adria bezogen / 高さは、「アドリア海」を基準       
  • Holz Geländer / 木橋
  • Maßstab 1:100 / 縮尺1:100      
  • erteilzunge mit Detail / 分水ゲート
    [堰堤] とその詳細       

 

Page170

f:id:hotelsekininsya:20200903173333j:plain

資料7
Drawing 3386 [PMO neg. No. 20943/30]       

K.G.L. Auschwitz Kläranlage B.A. III BW 18 /
アウシュビッツ捕虜収容所汚水処理施設 ビルケナウIII BW 18
MECH. BIOLOG, KLÄRANLAGE B.A. III SYSTEMS S.A.G./
ビルケナウ3号機用機械・生物浄化プラント、S.A.G.システム
縮尺 1:100

1943年12月16日に囚人72231が描いた図面3386、43年12月22日にヨータンがチェックし、ヨータンが承認した。 

図面内文字の翻訳

  • Provisorische Erdbecken / 仮設土坑      
  • Späterer Ausbau als Schlammfaulbehälter / 後に汚泥消化槽に転用      
  • Emscherbrunnen / 消化用貯水池      
  • Schieberschacht / 水門井戸      
  • Beschickungsbehälter / 給水タンク      
  • Schlammschacht / 泥水井戸       
  • Pumpenhaus / ポンプ室      
  • Biologische Tropfkörper / 生物学的バクテリア床      
  • Nachklärung / 最終デカンテーション     
  • Graben F / 排水溝F      

この図面は、ビルケナウBA.IIと同じであったビルケナウBA.IIIの第二版である。建設管理部が提案したビルケナウBA.III下水処理場は、4つの仮設土坑を統合し、汚泥消化槽に変身させたものである。 

 

 

PART TWO CHAPTER 2 クレマトリウムIまたは基幹収容所の「旧」クレマトリウム

この資料は、ジャン・クロード・プレサックの『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』を翻訳したものです。

phdn.org

目次 - アウシュビッツ ガス室の技術と操作 J-C・プレサック著

特定のページのリンクを貼りたい場合は、

このページのURL + #p + 三桁のページ番号

としてください。

[例:チクロンBの取扱説明書のあるページ(Page018)を指定したい場合]

https://holocaust.hatenadiary.com/entry/2020/08/21/031127#p018

 

Page123

CHAPTER 2 クレマトリウムIまたは基幹収容所の「旧」クレマトリウム

1944年9月から、アウシュヴィッツの最初の火葬施設(BW11、その後BW14と指定)の設置、利用、変容が始まった。

(註:「1944年」とあるが、これは明らかに「1940年」の誤植である)

 

はじめに

クレマトリウムIは、アウシュビッツで最初の火葬設備で、収容所の「通常の」設備の一部であった。しかし、ガス室と化した死体安置所で青酸中毒で人を殺すための犯罪実験器具として使われるようになった。この原型となる殺人の役割は比較的限定的なものであったが、クレマトリウムIは、公式決定の具体化を見たSSにとっても、ゾンダーコマンドの一員としてそこで働かされた囚人にとっても、大規模に行われた絶滅の事実の暴露という衝撃によって、強力なシンボルとなったのである。

第一に、ガス室が見学できる唯一のアウシュヴィッツ・クレマトリウムであるという現在の役割(夏には、さまざまな国籍の5000-7000人が一日に見学することもある)、第二に、II/III型のビルケナウ・クレマトリウムでのガス処刑と火葬の「実験台」となったという歴史の役割(クレマトリアムIVとVは新しく別のタイプで、クレマトリウム1の原理ではなくブンカー1と2の原理に基いている)である。

クレマトリエンII, III, IV, Vとは異なり、クレマトリウムIに関するドイツ語の文献は非常に少ない。このため、死体安置所での殺人ガス処刑の証拠を正式に立証することはできず、この証拠書類の欠如と施設の現状は、ガス室が実際には存在しなかったことを証明しようとする修正主義者の攻撃に有利に働いているのである。事実、建物自体はまだオリジナルのものであるが、1945年1月に発見されたその内部配置は再構成され、火葬とガス処刑活動に関連する設備は、修正主義者の目には、その存在を否定するものと映っているのである。 

殺人ガス処理の事実を立証する証拠としては、参加者の証言しか残っていないが、その中でも最もよく知られているのが、次に述べる人たちである。

アルター・ファインジルベルグ(別名スタニスラス・ヤンコフスキー、囚人27675)、1945年4月16日にクラクフで供述を行ったゾンダーコマンドの元メンバー。これは、その後、1971年にPMOが発行した「Heften von Auschwitz(アウシュヴィッツ・ノート)」の特別号に掲載された[資料Aは、1972年版の42と43頁からのクレマトリウムIに関する抄訳である]。「Faurisson Affair(フォーリソン事件)」後、アルター・ファインジルベルグは1980年9月29日にパリの公証人の前で新しい宣言を行なった[文書B1、B2、B3、クレマトリウムIに関する彼の発言は、余白に二重線で表示されている]。
註:アルター・ファインジルベルグの1945年の宣誓証言全文はこちらで読むことができます。

フィリップ・ミュラー、元ゾンダーコマンド、彼は、収容所での生活を「Sonderbehandlung(特別処置)」Verlag Steinhaussen Gmbh, Munich 1979という本の中で語っており、フランス語では「Trois ans dans une chambre à gaz d'Auschwitz アウシュビッツガス室での3年間)」, Pygmalion, Gerard Watelet, Paris 1980、英語では「Eyewitness Auschwitz(目撃者 アウシュビッツ」, New York, Stein and Day 1979として登場している。ここで取り上げるのはフランス語版である。

ルドルフ・ヘス、収容所創設者の司令官で、裁かれ処刑される前に獄中で回顧録を書いている。この著作の大部分は、PMOが非常に忠実にフランス語で出版した「Auschwitz vu par les SS(SSが見たアウシュヴィッツ」と題する本である[英語のテキストでは、ルドルフ・ヘス著『アウシュヴィッツの司令官』(Constantine Fitzgibbon, Pan Books, 1961)を参照]。
註:日本語版は2022年現在、講談社学術文庫から『アウシュヴィッツ収容所』のタイトルで出版されている。こちらは上述の版には存在しない、ミュンヘン現代史研究所所長を務め、この回想録の各国語版の原本となっている最初のドイツ語版を編集し出版させたマルティン・ブローシャートの序文が掲載されている。

ペリー・ブロード、元SSの収容所政治課長で、1945年、終戦時に捕虜となった英国に渡した文章を執筆。この文書はPMOのいくつかの出版物の主題となっているが、ここで使われているのは、「Auschwitz vu par les SS」1974年版の「Déclaration de Pery Broad」だけである。 

註:ペリー・ブロードの回想録の一部は、こちらこちらで読めます。

 

Page124

資料A

f:id:hotelsekininsya:20200829134009j:plain

“IN MITTEN DES GRAUENVOLLEN VERBRECHENS: Handschriften von Milgliedern des Sonderkommando Sonderheft (I) PMO” 1972, pages 42 and 43.
(「犯罪の悪夢の中で、アウシュビッツで発見されたゾンダーコマンドの囚人たちのノート」、特集号、1973年、40、41、42ページ。)

1945年4月、クラクフ、「スタニスラス・ヤンコフスキー」の証言より。

アウシュビッツの火葬場は、1階建ての建物(長さ約50メートル、幅12~15メートル)で、その中に5つの小部屋と30×5メートルの暗い大きなホールが1つありました。

この大広間には窓がなく、天井に2つの通気口があるだけで、電灯があり、廊下から通じるドアが1つ、もう1つはオーブンに通じるドアがありました。この広間は「Leichenhalle(死者の間)」と呼ばれました。 ここは死体安置室の役割を果たすと同時に、いわゆる「解体」「虐殺」、つまり囚人を射殺する場所でもあったのです。そのすぐ隣には、死体を焼くための火葬炉があるホールもあります。炉は3つあり、それぞれ2つの開口部を持っていました。1つの開口部には12体の死体を入れることができましたが、その分早く燃えてしまうので、通常は5体までしか入れられませんでした。死体は、いわゆる専用カートで炉に入れられ、死体が(炉に)捨てられた後、炉から取り出されました。死体は、コークスを燃やす鉄板の上に置かれていました。さらに、火葬場にはコークスを保管するコークス室、死体の灰を保管する特別室、衣料品を保管する部屋もありました。

資料B1、B2及びB3
[PMO microfilm 1254]

1980年9月29日にパリの公証人ピエール・アタル氏に対して行われたアルター・ファインジルベルグ氏による宣誓供述

資料B1

f:id:hotelsekininsya:20200829135022j:plain

パリ公証人ピエール・アタル氏の署名入り 
 
アルター・ファインジルベルグ氏(退職)
住所はパリ(19区)
ジャン・ジョレス通り、No 27

1911年10月23日、STOCKEK(ポーランド)に生まれる。

帰化によりフランス国籍を取得(身分証明書No.
カード番号3 801 788、1975年4月15日にパリ警察署から発行。
1975年4月15日パリ警察庁発行

WHOは、以下の宣言を確実に保存し、その全部または一部を伝達するために、署名した公証人に記録することを要請した。

コンピエーニュ収容所から強制移送された私は、1942年3月27日にアウシュビッツ強制収容所に到着しました。そこの大工の店で働いた後、1942年11月に収容所クレマトリウムIのゾンダーコマンド(特別公使館)に移されました。1943年7月、私はアウシュビッツから3キロ離れたビルケナウ収容所に移送され、クレマトリウムVゾンダーコマンドに配属されました。1945年1月18日、ドイツ軍が多くの脱走者を連れて収容所を避難したとき、私は収容所から数キロ離れた輸送集団から逃げ出すことに成功しました。

アウシュビッツに収容されている間、私は大量処刑を目撃しました。長さ30メートル、幅5メートルのクレマトリウムの大部屋で、SSが「Leichenhalle(死体ホール)」と呼ぶ機関銃で何百人もが撃たれました。クレマトリウムの庭に犠牲者を連れてくる前に、SSはゾンダーコマンドの9名のユダヤ人を隣接するコークス倉庫に閉じ込めました。そこでは、銃声と犠牲者の叫び声が聞こえました。そして、私たちを外に連れ出し、血まみれでまだ温かい死体を炉まで運ばせたのです。Leichenhalleで初めてガス処刑を見たのはアウシュビッツです。この部屋には窓がありませんが、天井に換気口があります。横の壁と奥の壁にある2枚の分厚い木の扉は、ガス密閉式になっていました。部屋は電気で照らされていました。ガス処刑の犠牲となったのは、ビルケナウから運ばれてきた約400人のユダヤ人です。私を含むゾンダーコマンドの男たちは、彼らが庭に入るのを見た後、コークス倉庫に閉じこもったのです。ゾンダーコマンドの男たちが出てきたとき、彼らも私も見たのは、庭にある彼らの服だけでした。

 

Page125

 資料B2

f:id:hotelsekininsya:20200829135808j:plain

資料B3

f:id:hotelsekininsya:20200829135903j:plain

30分後、ゾンダーコマンドは死体をLeichenhalleのドアから5メートルほど離れた別室にある炉に運ぶよう命じられました。

私が1943年7月からいたビルケナウでは、週に数回行われる非常に多くのガス処刑を目撃しました。

1944年、ハンガリーから何十万人ものユダヤ人が運ばれてきた輸送では、毎日、いや一日に何度もガス処刑が行われました。

ビルケナウでは、犠牲者が到着してガス室に入るとき、ゾンダーコマンドは施錠されていました。

しかし、このルールは常に適用されていたわけではありません。

したがって、私はゾンダーコマンドの一員として、SS隊員が直径約10-12cm、高さ約25cmの黒い缶の中身を、ガス室の屋根から数十cm突き出た小さな煙突か管のようなものに流し込んで、ガスを注入するのを見ることができたのです。

SSの男はマスクをつけていました。彼はすぐに缶の中身を流し込む開口部を閉じました。

ゾンダーコマンドは、SS男が缶の中身を注ぎ込んでから15分から20分後に、ガス室から死体を運び出し始めたのです。ガス室の扉は開いていました。換気により空気は浄化されました。扉付近で遺体整理を始めると、何の違和感もありませんが、部屋の中央で作業していると、ときどき目が潤んできました。

以下の内容を追加します。

私は、ゾンダーコマンドの男たちが、死体の口から金歯や詰め物を引き抜くのを見ました。死体が運び出されると、車両が衣服と「金」であるものをすべて運び出しました。

1944年にガス処刑されたハンガリーユダヤ人たちは、髪を剃らずにガス室に入ったことを付け加えておく必要があると思います。

私は、「スタニスラス・ヤンコフスキー」の名でアウシュビッツに強制移送されたことを証明します。1945年4月、私は、ポーランドにおけるヒトラー派の犯罪調査中央委員会のメンバーであるクラクフ判事の前で、この名前で宣言を行い、その宣言は、『アウシュヴィッツ・ノート』に掲載されました。

私は、自分の正体がアルター・ファインジルベルクであることを告げました。私の左腕と胸に刻まれたアウシュビッツ・ビルケナウ収容所の登録番号は、27,675です。

これが私の宣言です。

(1980年9月29日に公証人の前で署名され、1980年10月3日にパリで公式に寄託された宣言文)。

 

Page126

資料C1a

f:id:hotelsekininsya:20200829151401j:plain

資料C1b
[PMO File BW 11/5 page 3]  

f:id:hotelsekininsya:20200829151504j:plain

<資料C1bの日本語訳>

アウシュビッツ強制収容所管理会計 1942年 電話 アウシュビッツ No 65
チャプター21/7b
Tit....
指令番号No 451 デイヴィジョン14
アウシュビッツ武装親衛隊及び警察の中央建設管理部。
下記の商品をお届けするようお願いします。
数量         指定内容                                                   金額
                                                                                   単位        合計
1               火葬場の煙突、モーター室の補修。
2              スチール製ドアを設置する。
                 [手書き]
                  ルビッツ、直ちに実行し、インボイスを作成せよ。
                                                                       ビショフ 5月19日
                 kg.ルビッツ
                 1942年5月20日
アウシュヴィッツ、1942年5月13日
アウシュビッツ強制収容所管理責任者
署名リックSS中尉
本注文書の裏面に記載された条件を遵守すること。
<翻訳終了>

 

すべての人間の証言と同様に、これらの証言にはありえない肯定的な内容が含まれていることが多く、例えば、ガス室の設備について批判的に比較すると、矛盾した結果が得られるのである。

1.
アルター・ファインジルベルグは、3つの炉のうちの1つの焼却マッフル(口は0.60 x 0.60m、内寸は0.70 x 0.70 x 2.10m、トプフ製図D57253によると1.029m3)は一度に12体を「飲み込む」ことができるが(これは数学的には可能だが現実的には無理)、通常は5体が「納まった」ことを断言している。後者の方が現実に近く、一度に平均3体(通常の成人)であった。証人はここで明らかに、当時(1945年から50年)の一般的な誇張の傾向に道を譲った。クレマトリウムIの設備に関する彼の記述は、その長さ(50m)とガス室の寸法が17×46m(78.2m²)ではなく30×5m(150m²)であることを除いて、妥当である(建物は空襲シェルターに改造され炉は撤去されていたが)。特にPMOは、[30×5m]の数字に注釈を付けて、次のような寸法を示しているので、この推定誤差は十分すぎるほどである。17.00 x 4.50m、床面積65m²[!]、この面積は、収容所の初期の歴史に定期的に再現されているが、事実とは一致しない。1980年9月の彼の新しい宣言で注目すべきことは、証人が1945年4月に行ったのとまったく同じ寸法を繰り返していることであり、彼の発言の誠実さと信憑性の証拠となっていることである。

2.
フィリプ・ミュラーは、1942年5月(収容所に到着した日、23頁)、クレマトリウムIの煙突は円形の断面であったと書いている(37頁)[最初の状態は、1981年に元収容者から筆者に口頭で確認されたもの。収容所に収容される前にアウシュヴィッツの町に住んでいたヘルティヒ夫人(No.68919)は、1981年に筆者に口頭で確認した]。1941年9月25日付のトプフ社の 

 

Page127

資料C2a 

f:id:hotelsekininsya:20200829151927j:plain

資料C2b
[PMO File BW 11/5] 

f:id:hotelsekininsya:20200829152027j:plain

<資料C2bの翻訳>

収容所外での建物の建設と改修
アウシュビッツ、1942年5月20日
クレマトリウム
実施した建築工事の内容
クレマトリウムでは、床下煙道の補修を行いました。モーター室では、壁を作り、天井を作り、内壁を補修し、漆喰を塗りました。
使用した労働力
3人のレンガ職人 2人の労働者 5人の囚人
作業を行った日:1942年5月14日及び15日
勤務時間:2×11時間=22時間
使用材料:壁材 (2 x 2.22 + 2)0.90 +0.50 x 0.13 = 0.59㎥
                   ボールト 2 x 2.35 x 0.13                      = 0.61㎥
                                                                                     1.20㎥
レンガ造りに使用されるセメントモルタル: (1:3): 1.20 x 0.33 = 0.40㎥
(PTO)

<翻訳終了>

 

3号炉(neuer Ofen / 新しい炉)設置のための図面59042 aとbによると、煙突は角型であり、すでに再建されていたことがわかる。このことは、証人が記述している火災時(45、46ページ)、およびその結果、煙突が破損し、より頑丈に、したがって角型の断面に作り直さなければならなかった時の証人の存在を疑わせるものである。しかし、1942年5月13日の収容所管理局による命令[文書C1aとC1b]に関する一連の文書があり、クレマトリウム[I]の煙突(最初の項目)の修理を要請しているが、これは間違っている。なぜなら、作業の説明[文書C2aとC2b、C3とC3b]と最終報告[文書C4aとC4b]は、実際には、地下煙突(「Kaminnterkanal」)にのみ修理がなされたと述べている。これらの文書は、事故に関する証人の説明(800〜1000℃に加熱された耐火レンガに冷水を噴射)を完全に裏付けているが、1942年5月に「丸い」煙突が存在したことは否定している。なぜなら、作業説明書[C2a]のスケッチでさえ、それが四角であることが示されているからである。

アウシュビッツ博物館が最初に指摘したクレマトリウムIの煙突の形状に関するこの誤りは、事故による破損が修理書類で確認されているため、軽微なものである。F. ミュラーは、クロード・ランズマンの映画『SHOAH』(1985年にFayardから出版された脚本で、73ページで「耐火レンガが突然爆発し、アウシュビッツ・クレマトリウムと煙突をつなぐ(地下)煙道が妨害された」と述べており、修理文書と完全に一致する説明である)で見ることができるが、他の人々と同様に、(40年前の事実に!)時には間違いがあっても「技術」眼をもって証言してくれる貴重な証人である。

3.
ルドルフ・ヘスは、自分が立ち会った最初のガス処刑(900名のロシア人戦争捕虜)の一つを、クレマトリウムIの死体安置所で行なっている(164頁)と述べている。2つのディテールはありえない。78.2m²に900人が押し込められたことと、チクロンBを注入するために天井にいくつもの穴を「素早く」開けたことだ。10〜15cmのコンクリートに穴を開けるのは、思いつきでできる仕事ではない。 

註:私(翻訳者)の注釈は必要最低限度にしかしないつもりであるが、プレサックはこのルドルフ・ヘスの回想録の記述の引用を省略しており、知らない人は何のことかわからないと思うので、私による余計な解説はしないで、この部分の日本語版からの引用と、英語版からの引用を以下に示す。

<日本語版>
 もっと強烈に思い出されてくるのは、すぐにこれに引きつづいて、九〇〇人のロシア人を、古い火葬場で、ガスで殺した時のことだ(ここを用いたのは、第一一ブロックの使用には、あまりに手がかかりすぎたからだ)。さしあたり、ガス噴射の際には、たくさんあいてる穴は、屍体室の土やコンクリートで上からふさがれた
 ロシア人は、まず、全室で服を脱ぎ、全員大人しく屍体室に入っていった。虱(しらみ)を駆除するからという風にいわれていたからである。グループ全員が、完全に屍体室に入りきると、ドアがしめられ、開口部からガスが噴出した。
(『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫版、p294:強調は私)

<英語版(日本語訳)>
私は 900 名のロシア人がガス処刑されたことを明白に覚えている.ブロック11のガス処刑目的での使用が非常に多くの困難を引き起こしていたので,すぐあとに,古い焼却棟で行なわれた.移送集団の積み降ろしが行なわれているあいだ,穴が,死体安置室の土とコンクリートの天井にあけられた.ロシア人は前室で,服を脱ぐように命令された.次に,彼らは,害虫駆除を受けるといわれていたので,死体安置室に穏やかに入った.すべての移送集団は,正確に死体安置室の容積を満たした.その後ドアが閉じられ,屋根の穴からガスが投げ込まれた.

(加藤一郎、「伝統的ホロコースト史学とJ.-C.プレサック : 「コード言語」説と「目撃証言」の信憑性の評価」、国立国会図書館デジタルコレクションより:強調は私)

900名のロシア人を78.2㎡に詰め込むことは理論上可能であることと、天井に穴を開けたことについてのプレサックの考えが誤っている可能性があることについては、このプレサック本の日本語翻訳を提供するという趣旨を大幅に超えてしまうので、ここでは詳述しないこととする。付け加えると日本語版の翻訳がおかしいことと、英語版と日本語版の書かれた内容が微妙に異なっていることなどについても、ここでは解説しない。

 

Page128

資料 C3a

f:id:hotelsekininsya:20200829152656j:plain

資料C3b 
[PMO file BW 11/5, p.6]

f:id:hotelsekininsya:20200829152755j:plain

<資料C3bの翻訳>

漆喰:(2×2×2.35)+(2.22×2+1.87×0.70)= 8.55㎡
                                                            8.55 x 0.02 = 0.17㎥
レンガ:1.21×400=484個、または約レンガ500個
セメント:(0.40+0.17)×472=270kg
ドア補修用                                    = 50kg
廃棄物                                            =30kg
                                                        =350kg = セメント7袋
Ⅰ 2 スチール I ビーム、No12、一緒に       4.50リニアメートル
Ⅱ スチールドア65/195cmの予想修理額
Ⅲ 地下煙突の煙道の補修
                                         耐火レンガ 50個
                                         耐火性セメント 50kg
上級カポ・レンガ職人 17401
サインは判読不能
<翻訳終了>

 

ヘスは、自分の義務に忠実に「特別行動」に参加し、収容所の急激な拡大によって課せられたほとんど乗り越えられない仕事に心を砕き、その結果、彼の良心は道徳的な問題に思いを馳せることを許さなかったのだ。彼は見ることなく、存在していた。このような態度が、自伝の随所に見られる不本意な誤りを説明するのだと著者は考えている。


ペリー・ブロードの証言は、まだ解決されていない問題を提起している。収容所での様々な「活動」についての記述は、最も印象的なものの一つである。しかし、その宣言の形や口調は嘘っぽい。彼の文章は、親衛隊員の考えを忠実に反映したものであるはずがなく、実際に読んでみると、元囚人が書いたものであるかのような印象を受ける。148ページと149ページ、153ページから156ページをよく読まないと、これはわからない。最後に、誰が書いたか(172ページ)。 「このSSの怪物どもにとって、不当に扱われたユダヤ人が苦しむ姿は、面白い娯楽だったのだ!」 (というのは本当だろうか?)

P.ブロードの証言の基礎は、多くの誤りがあるにもかかわらず、本物であると思われるが、その現在の文学的形式は、かなり派手なポーランド愛国主義に彩られていることが目に見えている。 しかも、その宣言文のオリジナル原稿は不明である。しかし、この文章は否定されるべきものではなく、その「特殊なトーン」を説明することができる。ブロードが「勝者の言語」を採用したか(ピエール・ヴィダル・ナケの仮説)、あるいは彼の宣言がポーランド人によって「わずかに」手直しされたか(筆者の見解)である。

 

この4人の証人の証言にどんな批判があろうとも、すべて同一の事実、クレマトリウムIの死体安置室で行われた殺人的ガス処刑、を肯定している。たとえ、チクロンBを流し込む穴の数や換気扇の数について、彼らの証言が食い違っていたとしても、実際に設計したり設置したりしない限り、記録や記憶に残らないようなディテールであるが、死体安置所が犯罪目的で利用されたことは立証されている。

 

Page129

資料C4a

f:id:hotelsekininsya:20200829153434j:plain

資料C4b
[PMO file BW 30/25]

f:id:hotelsekininsya:20200829153544j:plain

<資料C4bの翻訳>

報告書
クレマトリウムで行われた仕事について。

地下煙道の補修。モーター室の煉瓦積みと屋根の建設。内壁の補修および左官工事。
労働:3人のレンガ職人 2人の労働者 5人の囚人
作業開始:1942年5月14日
作業完了:1942年5月15日
勤務時間:2 x 11 x 3 = 66 レンガ職人の時間
                   2×22×2=44労働時間
使用材料:500個のレンガ
                   350kgのセメント
                   スチールビーム2本 NP 12 = 4.50 リニアメートル
                   耐火レンガ50個
                   耐火セメント 50kg
作業の費用は、1942年5月13日の命令に従って、アウシュビッツ強制収容所管理局に請求される。
アウシュビッツ、1942年6月1日。署名は判読不能

<翻訳終了>

 

クレマトリウムⅠの誕生

1940年6月にアウシュヴィッツ強制収容所が設置されたオーストリアハンガリー、後のポーランド領の兵舎の元火薬庫、あるいは他の資料によると食糧の貯蔵所は、その年の7月5日頃から、死んだ囚人を焼却するための火葬場設備として改造された。作業は、6月14日に到着した最初の収容者(ポーランド政治犯)たちによって行われた。

この改造は、最初ではないにしても、最初のものの一つであり、強制収容所アウシュヴィッツ親衛隊のNEUBAULEITUNG / 建設管理部によって計画され、図面が作成された。12枚の初期図面のリストだけが見つかり、図面そのものは見つかっていない[資料D1a、D1b、D2]。建物の唯一の装飾である、正面玄関に吊るされた錬鉄製のランプ[写真1]も計画されたものである。火葬場設備の設置は、最初の囚人が来る前から決まっていたことだった。火葬炉の製造と設置を専門とする部門を持つエアフルトの J.A. トプフ&サンズ社 [D IV課、クレマトリウムバウ、クルト・プリュファーによる主任エンジニアの指示]と強制収容所の親衛隊建設部の間で交わされた書簡の中に、トプフ社は、1940 年11月23日に2基目のマッフル炉の注文を受けたと書かれている。 マウトハウゼン強制収容所 [Bundesarchiv Koblenz NS 4 Mauthausen/54]には、トプフがマウトハウゼン収容所用に提案されたものとまったく同じタイプの2つ目のマッフル炉を受注したことを述べた1940年11月23日の手紙がある(グーゼン副収容所に向けられたものであった)。1940年6月6日の書簡No.057253[資料E]に添付されているこの炉のトプフ社の図面は、実際には、アウシュヴィッツのものであり、クレマトリウムIに設置される最初の炉を示している。内部構造の詳細がわかる。

 

Page130

資料D1a

f:id:hotelsekininsya:20200829154428j:plain

 

資料D2a

f:id:hotelsekininsya:20200829154523j:plain

 

Page131

資料D1b及びD2b 
[Pages 41 and 42 of the Bauleitung “Catalogue of Drawings” : PMO File BW 1/4]

(写真は著者による)

f:id:hotelsekininsya:20200829154706j:plain

<資料D1b及びD2bの翻訳>

図面番号B.47a クレマトリウム(題名・訳文)(未所蔵・現存)
2a       Keller/地下室 (Leichenkeller/死体安置用地下室)                                                未
10       Einbau einer Einäscherungsanlage/火葬施設の設置                                          未
11        Erdgeschoss/地上階                                                                                              未
19a     Horizontalschnitt-Verticalschnitt/水平断面-垂直断面                                        未
20a     Erdgeschoss. Schnitte/地上階セクション                                                          未
24a     Werksatz. Ansichten/屋根のフレームの立面図                                                  未
26       U-Eisenrahmen für Schornstein/煙突用U字型鉄骨                                           未
34       Schmiedeiserne Fenstergitter/鍛鉄製の窓枠                                                     未
36       Angedoppelte Eingangstüre/2重の入口ドア                                                     未
47       Winkeleisen aus Riffelblech/チェッカープレート型アングル鉄骨                   未
38       Schmiedelserne Beschläge fd Eingangstüre/玄関ドア用鍛鉄製ヒンジ          未
51        Schmiedeiserne Lampe/錬鉄燈                                                                          未
372      Einbau einer Einascherungsanlage/火葬場施設の設置                                    未
870      Neubau Krematorium - Ansicht/新火葬場-立面図                                            未
871      Neubau Krematorium - Erdgeschoss/新火葬場-地上階                                   未
875    Neubau Krematorium - Aufstellung der Verbrennungsofen/新火葬場-焼却炉の位置図  未
932     NH Grundriss/平面図 (in Schubladen/引き出し)                                               現
933     Erdgeschoss/地上階                                                                                             現
934     Schnitte/セクション                                                                                             現
935     Ansicht-Westen/西立面                                                                             936に現
936     Ansicht-Norden/北立面                                                                                        現
937     Ansicht-Osten/東立面                                                                            現及び936
938     Ansicht-Süden/南立面                                                                           現及び936
980     Werksatz/屋根フレーム                                                                                        現
1173    Schnitt durch Leichenkeller mit Be- u Entlüftungsanlage/
              換気と空気抽出が可能な死体安置地下室の断面図                                          現
1174    Querschnitt durch den unterkellertensteil/地下室を通る縦断面                      現
1241    Bestandplan des Gebäudes 47a-Krematorium/47a-火葬場建物目録図         未
1301    Fundamentplan/基礎図 (in Schublade/引き出し)                                              現
785     Leichenhalle KGL/捕虜収容所の死体安置場所(ビルケナウ)                         未
812     Leichenhalle für das KGL/捕虜収容所の死体安置場所                                       未
879     Vorschlag zur Errichtung eines prov. Krematorium KGL/
              捕虜収容所の仮設火葬場建設計画                                                                    未
1040   Leichenhalle für KGL/捕虜収容所の死体安置場所                                             未
1062   Krematorium KGL/捕虜収容所の火葬場                                                              未
----------------------------------
1300   Entwasserung des Krematorium/火葬場の排水処理                                         現
1311    Deckblatt zum Grundriss vom Untergeschoss/
               地下室計画図の修正シート(932)                                                                     現
1341   Einzelheiten zu Türen, Dachladen/ドアの詳細、ルーフブレース(drwg 938)       未
1434   Errichtung eines Schornsteines am Krematorium/
               火葬場の煙突の建設[II/III型]             [未、但しBW 30/40, p.47に含まれる]
1740   Skizze Fenster im Dachgeschoss/ロフト窓のスケッチ                                    未
1745   NH Schornstein Krematorium 3/
               火葬場の煙突3[IV]                               [未、但しBW 30/40, p.54に含まれる]
2036  Einascherungsanlage KGL Erdgeschoss/
               捕虜収容所の火葬施設の地上階(タイプV/IVの火葬場)                             現

<翻訳終了>

 

火葬炉

このトプフの図面は、2つの火葬室(マッフルとも呼ばれる)を備え、その近くにある2つの炉でコークスを加熱する炉を描いており、クレマトリウムIに設置された最初の2つの炉の基本モデルである。この図面には示されているが、トプフ社の図面D59042[a、b]に従った横方向のパルスエアーの設置は炉に取り付けられていないようである。

 

概要

上部の開口部(図面D57253のセクションA Bの左上)からは、死体装填用台車(写真22、23、24)を使って1体または複数体を導入することができた。遺体の灰は下部の開口部(写真24の左下に見える)から回収された。登録された囚人の場合、遺灰は金属製の骨壷に納められた[資料F1、F2]。遺族は死亡を知らされ[資料F3]、火葬の「費用」を支払った後、要求に応じて骨壷を手に入れることができた。火葬は集団で行われることが多いので、遺族が受け取る骨壺に正しい遺灰が入っていることは事実上不可能であった。

炉にはコークスが供給され、燃えかすは炉の後方から階段で到達する小さな坑道[図面D57253のセクションA Bの右側]で取り除かれた。その煙は、地下の煙道を通って外部の煙突に到達する。

1941年9月25日のトプフの図面 D59042 [a と b] は、「新炉」として知られる3番目の2マッフル炉の設置に関するもので、トプフが提供した炉の操作説明書 [資料G1aとb、G2aとb] に示されるように側面パルスエアー設置も行っている。

死体を炉に装入するための台車は、1945年5月24日の宣誓供述書[Part III, Chapter 3]でヘンリク・タウバーが完全に説明しているように操作された。この台車の最大の問題は、死体装填用トラフやスライドに数体の死体を積むと、台車が傾くことであった。このため、クレマトリェンIlとIIIでは、このタイプの台車は捨てられ、より扱いやすい「Leichenbrett /死体ストレッチャー」が使われるようになった。

旧クレマトリウム(クレマトリウムⅠ)では、3基のダブルマッフル炉で満たされていた。1943年6月28日の建設管理部の手紙(31550/Ja/Ne)によると、クレマトリウムIは24時間に340体の死体を焼却することができたという。これは、次のように実現した「実用的スループット」である。

  • 最初のダブルマッフル炉の場合:1.5〜2体/マッフル・時
  • 新型のダブルマッフル炉の場合:3〜4体/マッフル・時

1943年3月17日の建設管理部の記録(Aktenvermerk)(24757/43/Jä/Lm)[file BW 30/34. page 54]に基づいて計算すると、3つの炉のコークス消費量は12時間の稼働あたり約1000kgと推定された。三番目の炉は、トプフ社のチーフエンジニア、クルト・プリュファーが設計した将来の3マッフル炉のプロトタイプで、10基が製造されビルケナウ・クレマトリエンIIとIIIに設置された。この炉は1941年12月に稼働を開始した[資料HI、H2]。

当初の煙突は円形であったが、破損のため角形に変更された。この変化が1941年9月以前であるかは不明である。炉室と煙突の間には、3つの炉の集合強制通風のためのモーターを収納する小屋があった[資料G3a、b、c]。

 

レイアウト [1942年9月25日付けトプフ図面 D59042 による。]

正面玄関の扉(北西)を開けると、炉の部屋へと続く前庭があった。ここには別の2部屋も含まれていた。外から入れる専用の入り口があり、小さな事務所(今はもうない)と骨壺の部屋があるコークス倉庫も含まれていた。外から前庭に入ると、右側の最初のドアは敷設室[現在、トシェビニャ労働収容所の石油燃焼火葬炉がある]に、左側のドア[1944年からレンガで覆われている]は3番目の炉に、最後に右側の2番目のドアは洗浄室に通じており、別のドアを通って炉室と通じている「Leichenhalle」すなわち死体安置室に直接連絡している。

死んだ囚人の遺体は、並べ部屋、洗浄室、死体安置所という巡回をし、火葬を待つ間、そこで保管されるはずであった。事実は、死体安置所に直接ストックされていたのである。死亡から火葬までの日数は3、4日であった[資料F1、F2]。その遺灰は、型式上は個々の骨壷に納められ、遺族の費用負担で送られた。

 

死体安置所

「普通の」死体安置所から、次第に「ノック・オーバー」(小口径銃で首の後ろを撃って処刑すること)の場所となり、収容所の政治課が断罪した者にこの方法を用いた。収容所の反対側のブロック10と11の間の庭で処刑された囚人の死体をクレマトリウムに運ぶよりも、犠牲者をブロック11から直接徒歩でクレマトリウムの死体安置所に運び、そこで射殺する方が多くの労力を節約することができたのである。

1941年末、死体安置所は、ディゲシュ社が製作し、テッシュ・ウント・スタベナウ(テスタ)社が帝国東部で販売、ドイツ国防軍が使用した青酸系殺菌剤チクロンBを使用する殺人ガス室へと姿を変えた。

現在のガス室の面積は、南東端のエアロックを含めて、98m²である。当初は、78m²の面積で、224m³の容積であった[クレマトリエンⅡとⅢのガス室の容積の半分より少し小さい]。炉室と洗浄室に面した2枚のガス密閉扉は、3枚の板を重ね、フェルトで密閉されていた[このガス密閉扉のうち、覗き穴のないものが3号炉のあった壁に立てかけられているのが見える]。天井には、チクロンB写真14]を流し込むための開口部が少なくとも3つあり、直接投げ込まれて

 

Page132

資料E

f:id:hotelsekininsya:20200829160230j:plain

犠牲者の上に散布された。死体安置所が収容できる500名から700名を殺すために、3kg[1つの開口部につき1kg]が必要であった。天井には、1つまたは2つの吸気ファンが設置されていたように思われる[ファジルベルグミュラー、ブロードの証言によると]。 

 

殺人ガス処理

最初の実験的ガス処刑は1941年9月3日に行われた。ブロック11の地下で、開口部を粗雑に土で塞いだ上で、チクロンBを使って行われた。犠牲者は病気の囚人250人とロシア人600人であった。翌日、ガスマスクをつけたSS隊員が結果を見に行くと、モルモットの何人かが生きていた。 さらにチクロンBが導入された。5日の夕方には、もう誰も動かなくなった。そして、その死体は、囚人たちによってクレマトリウムIに運ばれ、焼却された。その後まもなく、元収容所司令官ヘスによると、900名のロシア人捕虜[実際には500名から700名]がクレマトリウムIの死体安置所で直接ガス処刑され、死体を運ぶ必要を免れた。そして1942年1月、ユダヤ人絶滅のための小型ガス室2基を備えたビルケナウのブンカーⅠで作戦が開始された。

ガス処刑の間、クレマトリウムIの周囲のある区域は封鎖された。さらに、クレマトリウムの屋根を見ることは禁じられており、それは、クレマトリウムにもっとも近い建物の1階にあるSS病院の窓から見ることができ、「カザーネン通り(Kasernenstrasse)」によってだけ隔てられていた。クレマトリウムの前庭は閉鎖され、犠牲者の脱衣所として使われ、その後死体安置所に押し込まれた。二つのガス気密ドアが閉じられ、屋根の3つの開口部からツィクロンBが注入された。外では、叫び声をかき消すために、トラックが作業中エンジンをかけ続けていた。

このガス室は時々しか使われず、継続的に使われたわけではなかったので、どれだけの死者が出たかは不明である。その数は、おそらく1万人を超えないだろう。

クレマトリウムIは、1940年11月から1943年7月まで火葬施設として機能した。そのガス室は、1941年末から1942年まで、散発的に使用されたが、正確な日付はわかっていない。1943年に廃炉となり、3つの炉が解体され、煙突も取り壊された。

 

空襲シェルターへの改造

アメリカの爆撃(モノヴィッツのIGファーベンのブナ工場とアウシュヴィッツIへの最初の空襲は1944年9月13日)のために、ビルケナウに4つの「新しい」クレマトリウムが建設されてから使われていなかった「古い」クレマトリウムは、SS病院の患者用の空襲シェルターに改造された。1944年9月21日の2枚の同様のアウシュヴィッツ建築図面[4287a and b]は、建築物14と指定された内部の配置を示している。改造されたのは、入り口の前庭、整列室、洗濯室、死体安置所だけである。この最後の部屋は4つの部屋に分けられた。

 

Page133

資料F1                                                            資料F2

f:id:hotelsekininsya:20200829215746j:plainf:id:hotelsekininsya:20200829215835j:plain

資料F1及びF2

f:id:hotelsekininsya:20200829220142j:plain

<資料F1及びF2の翻訳>

アウシュビッツ・クレマトリウムIからの金属製骨壷の側面図と斜視図。これらの写真は筆者によるものだが、白黒の同様の写真はPMO neg.760/16(側面図)と760/17(上面図)で見ることができる。

骨壺の蓋に刻まれた正確な文章はこうだ。

クレマトリウム[五芒星]
 [蓋の縁にある円形の銘板、左上]

2017              Nr Urkunde/(火葬)証明書番号
WITALSKI     Name/姓
KARL             Vorname/名
19 9 13          誕生日
28 3 41         死亡日
2 4 41            火葬日

この囚人の死後、火葬まで5日間を要したが、死者が多かったため、遺体は大きな死体安置所に保管された。

もう一つの同じ骨壷はマウトハウゼンからのもので、PMO-116-491という番号で予備品として保管されている。その蓋の写真はPMO neg.No.760/24としてカタログに掲載されており、刻まれたテキストは以下の通りである。

No 721
WROBEL SZCZESNY
12 5 95
19 10 40
23 10 40 [死後火葬までの日数は4日]

<翻訳終了>

 

このように、6つの部屋で構成される部屋は、近辺で爆弾が爆発したときの爆風効果を軽減するために、連絡口の位置をずらして配置されている。手術台と鏡付きダブル洗面台(敷設室)、2つのトイレ(洗浄室)がセットになっていた[資料J1及びJ2]。入口には2つのエアロック(1つは支柱の間に壁を作り前庭に配置、もう1つはスイートルームの反対側、一番南の部屋に作られた)を使用した。

旧クレマトリウムの第二の未使用部分(炉室とその付属施設)は、医療倉庫として使われていた[元囚人ヘルマン・ラングバインによれば]。

 

解放後のクレマトリウムI

建物はSSが放棄した状態で発見された[写真2]。解放後すぐにクレマトリウムの改築が始まったので、1945年初頭の状態を示す内部の写真は撮影されていないようで、残念である。この作業の間、ガス室の屋根の上でダンスが催された[写真4]が、これは間違いなく戦争終結の幸福感に起因する出来事であっただろう。

煙突[写真8、9、他]は二番目のモデルの形に作り直された。屋根には、チクロンBを注入するためと思われる4つの開口部が作られ[写真15、18]、屋根用フェルトで覆われ、元の開口部の痕跡が隠された。 空襲壕の仕切り5枚の壁のうち4枚が取り壊された(註:次に説明されるように、この改築による仕切り4枚を取り壊したのは工事の誤りであり、取り壊すのは3枚でよかった)。得られた空間[写真26、27]は現在のガス室となり、面積は94㎡(エアロックを含まない)、本来のガス室はガス78㎡で、南側に残るエアロックによるアクセスはなかった。死体安置所と炉の間の連絡扉は、残念ながら元の位置のすぐ脇で再建(開口)された[写真26]。最初の2つの炉[写真22、23、24]は、「Bauhof」(建築資材の野外倉庫)にあった金属部品を記憶し、その機能として再構築したものである。3号炉は再建されなかった[写真25]。医療品貯蔵庫の入り口ドア[写真6、10]を窓に改造した。

 

結論

オリジナルの資料がなく、変質しているために[本章末の現在の構内の図面を参照]、元囚人やSSの証言が公式にその存在を肯定しているにもかかわらず、クレマトリウムIの旧死体安置室の殺人ガス室の存在を物質的に実証することは以前には不可能であった。このことが、修正主義者の攻撃(S. ティオン著『Vérité historique ou vérité politique(歴史的真実か政治的真実か)』La Vielle Taupe, April 1980, pages 314 to 317のクレマトリウムIに関するロベール・フォーリソンの発言を参照)が、収容所内でもっとも訪問者の多いこの建物に本質的に関係している理由なのである。しかし、1988年2月末、アメリカの合法的処刑方法(ガス室を含む)の設計・改良を専門とするアメリカ人技師フレッド・ロイヒターという人物が、「修正主義者」の依頼を受けてポーランドに行き、PMOの許可を得ずに、クレマトリウムIの「Leichenhalle」のレンガとセメントから7つのサンプルを採取してきたのである。ロイヒターが帰国後に書いた「報告書」[AN ENGINEERING REPORT ON THE ALLEGED EXECUTION GAS CHAMBER AT AUSCHWITZ, BIRKENAU AND MAJDANEK POLAND(アウシュビッツ、ビルケナウ、マイダネクの処刑用ガス室とされる建物に関する技術報告書 ポーランド). 1988年4月5日]には、各サンプルの分析で見つかったシアンのレベルが、サンプル1キログラムあたりのシアンのミリグラム(mg/kg)で表されている。そのうち6つが陽性(3.8/1.9, 1.3, 1.4, 1.3, 7.9, 1.1 mg/kg)、1つが陰性(サンプリング計画に従って床から採取した)であった。これらの結果は、事実上すべて(7つのうち6つ)陽性であり、クレマトリウムIの「Leichenhalle」での青酸の使用、したがって、殺人ガス室としての使用を証明するものである。今日、クレマトリウムIは、その不十分な復元にもかかわらず、アウシュビッツでの殺人的ガス処刑の本物のシンボルと見なされなければならない。なぜなら、数千人が実際にガス処刑によってそこで死亡したからである。

クレマトリウムIが収容所の多数の死者を火葬するにはもはや十分でないことがわかると、SSは、最初のクレマトリウムから20メートルほど離れた本収容所に「新しい」クレマトリウムを建設し、

 

Page134

資料F3

f:id:hotelsekininsya:20200829222004j:plain

資料F3の翻訳(英語)

f:id:hotelsekininsya:20200829222112j:plain

<「資料F3の翻訳(英語)」の翻訳>

別添及び複製
TELEX緊急で即納品
39244
クラクフ市治安警察・治安維持局司令官
私たちが保護預かりしていた ポーランド人の囚人がー ミハイロビッチ・スタニスラウス... 生まれ... 1900年11月18日... ランベルグで死亡しました。 ... 1942年9月21日... 14時25分、アウシュビッツK(強制)L(収容所)の囚人病院にて心不全のため。
規定により、ご遺体は国の費用で火葬され、その遺骨はこちらの納骨室に納められたことを、近親者にお知らせください。
上記の表明によれば、近親者は...妻です。スタニスラワ, M., クラクフ、6 Jozefa Poniatowskiego...です。彼女は既に電報で上記の者の死亡を知らされています。
署名 ヘス親衛隊中佐・司令官
原版との整合性を保証します。
Jan Schn 地区担当審査委員

<翻訳終了>

 

建物のラインを南東に延長することを検討した。このプロジェクトは、1941年10月末に新しい建設管理部責任者であるカール・ビショフSS大尉とトッフ社のチーフエンジニア、クルト・プリュファーとの会話から生まれ、建設管理部からトプフ社に送られた1941年10月22日の手紙に正確に記述されている[PMO files BW 30/27 page 27 and BW 30/43 page 116]。この調査は建設管理部のサービスによって行われ、おそらく「新しいクレマトリウム」(Neubau Kremat)の3枚の図面、No.870、871、875が作成され、それぞれ外観、1階、炉の設置が示されている[資料D1a]。これらの図面は発見されていないが、この建物が最終的な形で描かれている「930シリーズ」の「Entwurf für das Krematorium / クレマトリウム計画」の図面に酷似していたのであろう。図面3250(1941-42年に描かれ、1943年に収容所周辺の監視塔の位置を示すために建設管理部が使った)は、基幹収容所での状況を示している。 そして、親衛隊経済行政管理本部の1942年2月19日の[資料K]は、930シリーズのものと同様の新しいクレマトリウムが移植されているが、しかし集合外部煙突がその別棟に組み込まれて、930図面のようにそこから出ていないことが示されている。 1942年1月15日、新しく昇格したSS少尉ヴァルター・デジャコが率いる建設管理部の製図室は、「クレマトリウム計画」935(西面)、936(北面)、937(東面)[資料L]と938(南面)[資料M]の図面を完成させている。建物の向きは、基幹収容所が目的地であることを証明している(1942年2月19日の図面[資料K]にすでに示されている)。

この一連の立面図は、932(地下)、933(断面)、934(1階)の図面によって完成した。それらはすべてデヤコによってチェックされ、1942年1月28日にビショフによって連署された。1941年10月22日の手紙にある二つの地下の「Leichenkeller/死体安置地下室」の位置は、図面935、936、937、938に記載されていない。

しかし、1942年2月27日[file BW 30/25. page 1(1942年3月5日の手紙)、and BW 30/34, page 37(1942年3月30日の手紙)]、ベルリンのSS経済管理本部の親衛隊上級大佐イング・カムラー博士との会議の結果、この新しいクレマトリウムを基幹収容所からビルケナウの捕虜収容所に移すことが決定し、そこに、『図書館』で「Bauwerk/ 作業場」30として分類されていた建物が「クレマトリウムⅡ」として建てられコピーされていったのである。

1942年4月2日の建設管理部からトプフ宛の書簡[資料N]は、デジャコが書き、ビショフが署名しているが、「アウシュヴィッツ強制収容所(すなわち、捕虜収容所、基幹収容所)に建設される新しいクレマトリウム」について述べているので、この決定はかなりのあいだ純粋に理論的にとどまっていたようである。

 

Page135

資料G1a

f:id:hotelsekininsya:20200829223156j:plain

資料G1aの翻訳
[PMO, file BW 11/1. p.1]

J. A. トプフ・ウント・ゼーネ

1941年9月24日

宛先
親衛隊全国指導者
及びドイツ警察長官
及び武装親衛隊建設管理部
上部シレジアのアウシュヴィッツ

件名
トプフの火葬炉

Your ref      Our Ref D IV
                 Prf [Prüfer}

貴殿の建設局長であるウラバンツェク親衛隊曹長と我々の主任技師であるプリュファー氏との会話に続き、トプフの火葬炉とトプフ強制換気装置の操作説明書を3部同封します。各説明書のコピーを炉室にガラスカバーをかけて掲示し、炉が正しく運転されるようお願いします。

私たちはあなたを歓迎します 
ハイル・ヒトラー

J A TOPF & SONS
2つのサインは判読不能

アウシュビッツSS建設管理
1941年9月26日受領

同封物   火葬炉の操作説明書3部
              強制換気装置に関する操作説明書3部  

 

Page136

資料G2a

f:id:hotelsekininsya:20200829224212j:plain

資料G2b
[PMO File BW 11/1, page 3]

コークス炉トプフ操作説明書
ダブルマッフル焼却炉  

2つの炉にコークスを充填する前に、2つの炉のダンパーと煙突のメインロータリーダンパーを開けておかなければなりません。

(コークス炉の)燃え殻除去扉の左右にある2次開口部を必ず開けて、火をつけて維持することができます。

火葬室(マッフル)が程よい赤熱(約800℃)になったところで、火葬室に遺体を次々と投入していくことができます。

次に、炉の横にあるパルス式送風機のスイッチを入れて約20分間運転し、2つの火葬室に新鮮な空気が入りすぎたり、入らなくなったりしないようにします。

新鮮な空気の調節は、エアダクト内のロータリーバルブで行います。また、チャンバー扉の左右にある吸気口は半開きにします。

遺体の残骸がシャモットグリッドから下の灰回収路に落ちたら、スクレーパーを使って灰除去扉に向かって手前に引きます。ここでさらに20分ほど放置して完全に消火させた後、灰を容器に入れ、冷ましておくとよいです。

その間に、さらに死体が次々とチャンバーに運び込まれることもあります。

2基のコークス炉には、随時燃料を供給しなければなりません。

毎晩、炉の火床を掃除してクリンカーを落とし、燃えかすを取り除かなければなりません。

また、作業終了後、炉内が空になって炭がなくなったらすぐに、空気弁、扉、ダンパーをすべて閉めて、炉内が冷えないように注意しなければなりません。

焼却のたびに炉内の温度は上昇します。このため、炉内温度が1100℃(白熱)以上にならないように注意する必要があります。

この温度上昇は、新鮮な空気を追加導入することで回避することができます。

 

Page137

資料G3a

f:id:hotelsekininsya:20200829224611j:plain

資料G3b
[PMO File BW11/1, page 2] 

操作説明書
トップフ社製強制通風機設備

炉の吸引がうまくいかない場合は、煙突に組み込まれた強制通風装置を稼働させる必要があります。

このとき、まずモーターのスイッチを入れてから、煙突のロータリーダンパーを閉めるように注意します。また、タンクからの冷水もすぐに開ける必要があります。

焼却終了時には、まず煙突のロータリーダンパーを開き、モーターと水の供給を停止しなければなりません。

また、タンクに常に十分な水が入っているように配慮する必要があります。


資料G3c

f:id:hotelsekininsya:20200829224805j:plain

資料G3c

トプフ社製強制通風機の設置:模式図(操作の再構成) 

  • Cheminee / 煙突      
  • Reservoir d'eau / 水タンク      
  • Motcur / モーター
  • Saugzuganlage (強制ドラフト装置)      
  • Aerations / 換気装置      
  • Ancienne cheminee de la poudriere / 旧粉末貯蔵庫の煙突      
  • Ofen / 炉
  • Ofenraum / 炉室      
  • Leichenhalle / 死体安置場所

クレマトリウムⅠまたは旧クレマトリウム 

 

Page138

資料 H1
[PMO BW 11/1 p.4]

f:id:hotelsekininsya:20200830003712j:plain

資料H2

f:id:hotelsekininsya:20200830003753j:plain

1941年12月9日付、エアフルトのトプフ&サンズ社のセクションD IV、[Kプリュファー]からアウシュヴィッツ武装親衛隊と警察の建設管理部への、火葬場の炉に関する書簡。 

最初の4行の翻訳:

組み立て工のMährは、新しい火葬炉の土台を準備し、コークスで焼いた2つのダブルマッフル火葬炉の修理を行い、この作業は日当で請求されています。

 

Page139

資料 J1
[PMO BW 11/4. p.1]

f:id:hotelsekininsya:20200830005422j:plain

アウシュビッツ 1944年11月6日   
親衛隊空襲シェルター(旧火葬場)に必要な配給物資BW 14 4部。アウシュビッツ
1944年11月14日       
署名は判読不能      

資料 12
[PMO 8W 11/4. verso p.1]

f:id:hotelsekininsya:20200830005739j:plain

7号棟改造のための配給資材

1      50cmの洗面台は、補助ブラケット2個付き。     Iron 1.8  
1      サイフォン     亜鉛 2.2 
1      1/2” タップ     亜鉛 0.38 
12      3/4インチチューブ、亜鉛メッキ163を採用     Iron 19.56 
5      メートル 1 1/2インチ ブラックチューブ 386     Iron 19.30 
1      鏡

 

Page140

出典

a)      File BW 11/1: (15 資料)  

  1. 1941年9月24日、トプフから建設管理部への書簡      
  2. トプフの強制通風設置に関する操作説明書        
  3. トプフのダブルマッフル炉の操作説明書      
  4. 1941年12月9日、トプフから建設管理部への手紙(1ページ目)       
  5. トプフからの1941年9月12日の手紙(2ページ目)      
  6. 1941年12月10日、トプフから建設管理部への書簡      
  7. 1942年5月1日、トプフから建設管理部への書簡      
  8. 建設管理部(タイクマン/アートル)からトプフへの42年5月1日の手紙の写し       
  9. 上記の原稿ドラフト[1942年1月5日]      
  10. 建設管理部(タイクマン/ビショフ)からトプフへの1942年8月1日の手紙の写し       
  11. 1942年9月1日、トプフから建設管理部への書簡。     
  12. 1942年2月4日、建設管理部(デジャコ/ビショフ)からトプフへの書簡の写し      
  13. 1944年12月22日、空襲シェルター(旧クレマトリウム)BW14の給排水設備の目録(ヤニシュ/ライヒヴァイン)。    
  14. 1941年の空白の建設管理部のインボイス      
  15. 上記[1941年]と同一

b)      File BW 11/2: (3枚の図面、番号16,17,18) 

  1. ポーランドにおけるヒトラー派の犯罪を調査する中央委員会によって作成されたトプフ図面D59042 [a]のコピー       
  2. 1941年9月25日、トプフの図面 D59042 [a]
  3. 1941年9月25日、トプフの図面 D59042 [b]

c)      File BW 11/3: (19a、19bと書かれた2枚の図面) 

  1. (19a)1944年9月21日の建設管理部図面4287
  2. (19b)1944年9月21日付建設管理部図面4287 [排水] 

d)      File BW 11/4: (3資料) 

  1. 1944年11月6日と14日付の空襲シェルターBW14に必要な配給物資の4部構成のリストを手書きで記したメモ       
  2. (1a)上記の裏面、11月4日に必要な衛生器具のリスト、鉄と亜鉛、[44]。  
  3. (2)1944年11月6日に建設管理部が作成した、BW 14の衛生設備に関する非鉄金属要求事項のメモ。(ヤニシュ/ライヒヴァイン)     
  4. (3)1944年11月6日、建設管理部が作成した、BW 14の衛生設備に関する鉄の要求事項のメモ。(ヤニシュ/ライヒヴァイン)

e)      File BW 11/5: (6資料)

  1. 1942年6月1日付、クレマトリウムIで行われた作業のトプフ報告書      
  2. 上記と重複       
  3. 1942年5月13日付けの、クレマトリウムIの修理に関する収容所管理部から建設管理部への命令書。
  4. (3a)上記の裏面に納品条件を記載      
  5. (4)1942年5月13日付行政命令のタイプコピー      
  6. (5)1942年5月20日付、クレマトリウムIで行われた作業を列挙した煉瓦職人長のカポからの手書きの復命書、トプフの役人の副署、[1ページ目]
  7. (6)1942年5月20日付手書き再録書簡[2ページ目]

f)      File BW 14: 

(このファイルには、1944年9月に行われたSS病院と空襲シェルターの工事に関する書簡が含まれている。また、旧クレマトリウムを空襲シェルターに改造した図面、1944/9/21の建設管理部図面4287も含まれている。ファイルBW 14のこの図面は、すでに別の場所に分類されているため、ページ番号や写真参照番号はない)      

 

f:id:hotelsekininsya:20200830012027j:plain

資料K
[PMO neg. 20931/4]

1942年2月19日に経済行政管理本部C I室がベルリンで描いたアウシュビッツ主要収容所(捕虜収容所)整備計画図の一部を筆者が1/1トレースしたもの。

図面内文字の翻訳

  • Altes Krematorium / 旧クレマトリウム       
  • Wohnung Kommandant/  司令官の家     
  • Sola Fluss / ソラ川      
  • Kasernenbereich / 兵舎      
  • Wirtsch[afts] Gebäude / 収容所内事務所     
  • Garagen / ガレージ       
  • Bauleitung / 建設管理部      
  • Provisorische Kindergarten / 仮設幼稚園      
  • Lageplanskizze / 位置図      
  • Maßstab/ 縮尺

この図面は、ベルリンのSS経済行政管理本部が計画し、1942年2月19日に描かれた、古い火葬場の建築ラインの南東、つまりほぼ南側に建設される新しい火葬場の位置を示している。

 

Page141

f:id:hotelsekininsya:20200830012625j:plain

資料L
[PMO file BW 30/05, neg. no. 20818/7] 

「Entwurf fur das Krematorium / クレマトリウム計画」東側立面図。建設管理部図面937、縮尺1:100[表示されている1:1ではない]1942年1月15日にSS軍曹ウルマーによって描かれ、1月28日にSS少尉デジャコによってチェックされ、同じ日にSS大尉ビショフによって承認された。

この火葬場がビルケナウに移された後、この外観の向きは東から北に変更された。Leichenkeller/死体安置用地下室2の半分埋まった屋根の端は、右側の建物の延長線上に描かれていた。

 

Page142

f:id:hotelsekininsya:20200830013346j:plain

資料 M:
[PMO BW 30/06, neg. no 20818/8]

「Entwurf für das Krematorium / クレマトリウム計画」南立面図 建設管理部図面938, 縮尺1:100 1942年1月15日にSS軍曹ウルマーが描き、1月28日にSS少尉デジャコがチェックし、同日にビショッフ大尉が承認した。

この火葬場をK LアウシュヴィッツからK G Lビルケナウに移すことが決定された後、この図面はコピーされ、ビルケナウへの移植にしたがって、将来のクレマトリウムⅡの4つの外観を示す15.1.42の建設管理部図面936に含まれている。そのため、この外観は東向きのファサードとなった。さらに、南側外観と直角に位置するLeichenkeller/死体安置用地下室1の半埋め込み屋根が追加された。

 

Page143

資料N:
[PMO BW 11/1, p.12] 

f:id:hotelsekininsya:20200830014015j:plain

翻訳

1942年4月2日
通信記録番号 5999142/De[jaco]/Qu
登録
件名:アウシュビッツ強制収容所内に建設される火葬場の換気・空気排出工事
参考:1942年3月12日の貴部署からの手紙 D - Schm
同封物:図面4枚

宛先:トプフ・ウント・ゼーネ社
エアフルト

アウシュビッツ強制収容所に建設される火葬場の修正図面一式を添付します。

この図面には、換気用吸気ダクトおよび排気ダクトの希望位置が示されています。図面D 59 366に示されたプロジェクトを開発または変更する場合は、可能な限り図面に示されたダクトの位置に合わせていただくようお願いします。

屋根の上の吸排気ダクトは、レンガの煙突の形にする予定です。

工事の緊急性に鑑み、一刻も早く仕上げていただくようお願いします。

アウシュヴィッツ武装親衛隊・警察署長
中央建設管理部

[ビショッフのイニシャル]
親衛隊大尉(専門家)


デジャコが手紙に同封した、将来のクレマトリウムⅡの換気ダクトを示す4枚の図面は、それ以外の何物でもないだろう。

932    
(地下の図面)

933    
 (建物と地下の死体安置所[Leichenkeller]1と2と934(1階)の断面図)[この2つの図面は、しばしば1つの図面として一緒に提示される]

980
(屋根枠の図面)

1173
(Leichenkeller1と2の接合部の建物の縦断面)と1174(Leichenkeller1の地上の本館と接続する部分の横断面)[常に1枚の図面として一緒に提示されている]。1942年4月2日  

 

Page144

クレマトリウムの外観 I 

f:id:hotelsekininsya:20200830014945j:plain

写真1
[Source: PMO]

クレマトリウムIの北西側を描いた古典的な「絵葉書」には、実際には独立しているにもかかわらず建物から出ているように見える煙突や、決してない[原文ママ]覗き穴のついた鉄面ガス密閉式のドアが描かれている。

 

f:id:hotelsekininsya:20200830015202j:plain

写真2:
[PMO neg. no. 16948]

煙突がなく、死体安置所の窓が塞がれた「空襲シェルター」状態だった1945年のクレマトリウムIの西側角。中央のドアは壕の最初のエアロックに、その横の2つ目のドアは医療倉庫に通じていた。

 

f:id:hotelsekininsya:20200830015322j:plain

写真3:
[PMO neg. no. 4003]

1946-47年、煙突が再建されたクレマトリウムIの西角。死体安置所の窓と第三炉に明かりを供給する窓は再設置された。

 

f:id:hotelsekininsya:20200830015443j:plain

写真4:
[Photo by the author, 1983]

クレマトリウムIの西角、現在の状態。

 

Page145

f:id:hotelsekininsya:20200901170135j:plain

写真5
[Photo by the author, 1983]

クレマトリウムIの北西の外観、現在の状態。

 

f:id:hotelsekininsya:20200901170303j:plain

写真6

[Photo taken from the book by Saul Friedländer, "Kurt Gerstein ou l'ambiguité du bien", Casterman 1967, plate, page 16. Photo probably from the PMO]

1945年1946年に再建されるクレマトリウムIの北角。煙突が完成した。死体安置所の窓が取り付けられている。医療品倉庫のドアは元のまま。

 

f:id:hotelsekininsya:20200901170509j:plain

写真7:
[Photo by the author, 1983]

クレマトリウムIの北側の角、現在の状態。右側の建物は収容所のSS病院であった。1階の窓からは、クレマトリウムIの屋根を直接見下ろすことができ、ガス処刑の際に、SS隊員がトラップからチクロンBを注入しているのが見えたのである。そのような時は、窓から外を見ることは禁じられていた。これらの建物が近接していたため、1944年9月に、火葬場の南西部分がSS病院の空襲シェルターに改造された。

 

Page146

f:id:hotelsekininsya:20200901170712j:plain

写真8
[Photo by the author]

煙突の北側角

 

f:id:hotelsekininsya:20200901170823j:plain

写真9
[Photo by the author]

煙突の東角、現在の状態。煙突と炉室の壁の間には、3つの炉の効率を上げるための強制換気装置が設置された小屋があった。

 

Page147

f:id:hotelsekininsya:20200901171016j:plain

写真10
[Source: Warsaw Central Commission, Stanislaw Luckzo series. Sygn. 5150A]

右側の扉は、1945年[5月]のクレマトリウムIの正面玄関(北西)である。このドアがオリジナルなのか、取り付けられたばかりなのかは不明。修復作業が進行中。左側のドアは旧医療倉庫に通じており、その後再び窓に改造されることになった。

 

f:id:hotelsekininsya:20200901171332j:plain

写真11
[Source: Warsaw Central Commission, Stanislaw Luckzo series. Sygn. 5148]

1945年当時、木の後ろに見えていたSS病院用空襲シェルターの第二エアロックへの南東のアクセス。この入り口は、クレマトリウムIのガス室跡に直接つながっている。ガス室とは何の関係もないが、歴史的事実を尊重し、本来は埋められるべきところを、修復の際に保存されたのである。

 

f:id:hotelsekininsya:20200901171625j:plain

写真12
[Photo by the author]

第2エアロックの南東側入口、現在は犠牲者用入口とされている。 

 

Page148

f:id:hotelsekininsya:20200901171841j:plain

写真13: 

1944年8月25日、アメリカの飛行士によって撮影されたアウシュビッツ基幹収容所の航空写真。円の中央には、煙突のない「古い火葬場」すなわちクレマトリウムIがあり、これは解体されている。炉室の上に見えるのは、2本の小さな自然換気用の煙突だけである。その横には、SS病院が一階を占めていた建物がある。 

写真内文字の翻訳

  • Le nouveau pont sur la Sola / ソラに架かる新しいポロ橋      
  • Bâtement de l’hôpital SS / SS病院建物      
  • Entrée avec l'inscription / スローガンを掲げたエントランス:「Arbeit macht frei」 [仕事は自由をもたらす]  

 

Page149

f:id:hotelsekininsya:20200901172204j:plain

写真14
[Source: Warsaw Central Commission, Stanislaw Luckzo series, sygn. 5149]

旧火葬場の屋上でダンス

クレマトリウムIの屋根を南北方面から見る、1945年(5月?)。煙突はまだ再建されていない。屋根の特徴は、

  • 炉室換気用煙突2本[ツートンカラー、ダークキャップ]。
  • 他にレンガ造りの煙突が2本あり、新築の外観から空襲シェルターの換気用と思われる。
  • さらに、その左側に平行して、2本のレンガの煙突が建っている線上に、チクロンB導入用のトラップが埋められている場所が3箇所あり、死体安置所がガス室として使用されていたことがわかる。

ステージの上には、ハンマーと鎌をあしらった赤い星を中心に、ポーランド[左]とソビエト連邦[右]の国旗が掲げられ、その上にはランプが取り付けられている。この写真は、1945年にクレマトリウムIの屋上でダンスが企画され、実際に殺人ガス室の上で人々が踊っていたことを証明するものである。このエピソードは、今日ほとんど信じられないような、悲しいほど残念なことに、その動機は不明である。また、この写真から、現在の屋根フェルトの被覆と屋根の亜鉛の周囲がオリジナルではないことが証明された。 

 

Page150

クレマトリウムIの外観
[屋上]

f:id:hotelsekininsya:20200901173316j:plain

写真15
[Photo by the author] 

クレマトリウムIの屋根の全景、南東方向。右側は戦後再建されたチクロンB[1~4]を流し込むための4つの開口部である。左側は空襲壕の換気煙突と思われる2本[A、B]と炉室換気煙突2本のうちの1本[2]である。

 

f:id:hotelsekininsya:20200901173545j:plain

写真16
[Photo by the author]  
屋根の南東部に設置された空襲シェルターの換気用煙突と思われるもの。このダクトは、かつてのガス室へと直接つながっている。上部のレンガの横の層は消失している。

f:id:hotelsekininsya:20200901173706j:plain

写真17
[Photo by the author]
クレマトリウムIの屋根の南隅にある雨水排水。亜鉛の雨樋と樋管は戦後に設置されたもの。 

 

f:id:hotelsekininsya:20200901173855j:plain

写真18:
[Photo by the author]
戦後設置された4つのチクロンB用開口部のうちの1つ。屋根用フェルトで覆われた木製のもの。

 

f:id:hotelsekininsya:20200901174024j:plain

写真19
[Photo by the author]
屋根の北西部に設置された空襲防空壕の換気用煙突と思われるもの。煙突は旗竿の台座として使用するため、ダクトは塞がれている。

 

f:id:hotelsekininsya:20200901174249j:plain

写真20
[Photo by the Author] 
炉室換気煙突、1号炉の上、煙突に近く、屋根の北東部に設置されている。

 

f:id:hotelsekininsya:20200901174405j:plain

写真21
[Photo by the author]  
屋根の北東部に設置された、1号炉(左)と2号炉(右)に対応する2本の炉室換気用煙突。これらはオリジナルである。

 

Page151

f:id:hotelsekininsya:20200901174527j:plain

トプフ・ウント・ゼーネ図面D 59042 [a]

[PMO neg. no. 20818/1]
1941年9月25日、縮尺1:100。

Einbau einer Einäscherungsanlage für K L Auschwitz / アウシュビッツ強制収容所の火葬場建設に着手
[左上はクラクフ地方ドイツ人犯罪調査委員会のスタンプ]

図面内文字の翻訳

  • Grundriss / 計画図
  • Neuer Ofen / 新炉      
  • Druckluftgebläse / パルスエアーブロワー      
  • Drehscheibe / ターンテーブル      
  • Ofen / 炉      
  • Ofenraum / 炉室   
  • Koks / コークス
  • Urnen / 骨壷
  • Vorraum / 前庭      
  • Aufb[ahrungs]raum / 配置室 (Laing out room)     
  • Waschraum / 洗浄室     
  • Leichenhalle / 死体安置所 [遺体ホール] 

なお、クレマトリウムIの長さについて指摘する必要がある。長さは36.57mではなく、27.57mである。煙突と炉室の間にある小屋に収納された強制換気装置は見えない。クレマトリウムⅠの建物周辺を示す鉛筆の線はオリジナルではない。      

 

Page152

トプフ・ウント・ゼーネ図面D 59042 [b]

[PMO neg 21033/1]
1941年9月25日、縮尺1:100。

Einbau einer Einäscherungsanlage fur K L Auschwitz / アウシュビッツ強制収容所の火葬場建設に着手 

f:id:hotelsekininsya:20200901175751j:plain


f:id:hotelsekininsya:20200901175808j:plain

図面や表記は前作と同様であるが、この図にはトプフの紫色のスタンプと、アウシュビッツにいた同社の代表者の青い署名が加えられている。地下の煙道は濃いピンクで輪郭が描かれている。「Neuer Ofen」と青黒いインクで書かれ、左の小さなスケッチのように、炉の壁は外側が赤、内側が黄色で表示されている。

 

Page153

f:id:hotelsekininsya:20200901175957j:plain

クレマトリウムIの3炉の床下煙道システムの再構築 

トプフの図面D 57253と59042に基づく。煙道はすべて、炉室と煙突の間にある強制通風装置につながっている。 
[ジャン=クロード・プレサックによる図面]

 

Page154

クレマトリウムIの内部
(炉室とガス室)

f:id:hotelsekininsya:20200901180255j:plain

写真22
[Source: PMO]

1号炉を東側から見た図。2つの火葬マッフルの扉(上)と人骨収集扉(下)が開いている状態。レールの上に設置された2台の死体運搬用トロッコは、解放時には現在の位置になかったが、基幹収容所で放置されているのを発見して再設置されたものである。どちらも完全ではなく、左は車輪がなく、中央は操縦ハンドルがない。これらは、ゾンダーコマンドのメンバーであるヘンリク・タウバーが語ったとおりに使用された[Part III, Chapter 3参照]。

 

f:id:hotelsekininsya:20200901180508j:plain

写真23
[Source: PMO]

2つのマッフルが開いた1号炉を南東から見た光景。右側のトロッコのチェスト(箱部分)を覆う金属板が欠落している。チェストの中には、炉に入る2メートルの長さの死体滑り桶の重さに対抗するために、石や金属製のものが入っていた。 

 

f:id:hotelsekininsya:20200901180623j:plain

写真24
[PMO neg.No.20788/2]

1 号炉(左)と 2 号炉(右)の南北方向の写真。この写真から、2号炉は1号炉とは異なり、レンガを支える金属製の枠の上部が欠落しているため、復元品であることがわかる。SSによって解体された2つの炉は、解放後に再建された。オリジナルの図面がないため、元囚人たちの記憶と収容所内で見つかった金属部品の入手に頼っての復元となった。

 

Page155

f:id:hotelsekininsya:20200901180821j:plain

写真25
[PMO neg. no. 4005]

「新炉」と呼ばれ、唯一パルスエアーブロワーを装備した3号炉の配置を南・北から見る。SS.によって解体され、その後再建されることはなかった。そのすぐ上に、医療品貯蔵庫として使われていた炉の部屋への出入り口があるのだから、その場所は仮設の床で覆われていたのだろう。戦後、観光客の安全のために設置された金属製のバリアである。北の隅には、炉の2つの窯を焼くための坑道へと続く階段があり、レールの端の掘削は、煙を外部の煙突へと導く煙道へと続いている[トプフの図面D 59042 aとhおよび筆者の煙道システムの復元を参照]。右は収容所解放時に発見された3台目の死体装填用トロッコのスライドトラフの端部である。

 

f:id:hotelsekininsya:20200901181223j:plain

写真26.
[Source: PMO]

元の死体安置所に隣接する洗浄室の位置から撮影した、かつてのガス室の南西/南東の眺め 現在の床面積94m²[一番奥のエアロックを除く]は、かつての死体安置所/ガス室の面積78.2m²に相当しない。突き当たりは防空壕の南東側エアロック。 天井には、戦後設置されたチクロンB注入用の開口部1(左)と2(右)[第1火葬場の屋根の写真参照]がある。その奥にあるのが部屋と連絡する扉で、元の位置から1メートルほど離れたところに再設置されている。 

 

f:id:hotelsekininsya:20200901181413j:plain

写真27:
[PMO neg. no. 20693/1]

ガス室跡の一部を南東/北西から見たもの。中盤、左側の壁と床には、ガス室を復元するために取り壊された空襲壕の仕切り壁の跡が残っている。一番奥にあるガラス張りの扉は、かつてのレイアウト室に通じており、その後手術室に改装され、現在はトシェビニャ労働収容所の石油燃焼炉が置かれている。78.2m²の元のガス室の端は、現在の端の壁の一部を形成している梁から数えて3番目の支持梁の下にあった。

 

Page156

f:id:hotelsekininsya:20200901181625j:plain

 建設管理部図面4287 [a]
 [PMO neg. no. 21032/1]

1944年9月21日、縮尺1:100、囚人57347による作図

Ausbau des alten Krematorium / 旧火葬場改修
Luftschutzbunker für SS revier mit einem Operationsraum / 手術室を備えたSS病院の空襲用シェルター

図面内文字の翻訳

  • Grundriss / 計画図面       
  • Schleuse / エアロック  
  • Operationsraum / 手術室      
  • Tisch / [操作]テーブル      
  • Trockenklosette / 化学トイレ       
  • Besteh[ender] Kanal / 下水道      
  • Luftschutzräume / 防空壕      
  • Querschnitt / 断面      
  • Terrain / 地上階

この図面は1944年10月16日、図面目録に登録された。図面の下の部分だけが空襲用のシェルターに改造され、6つの部屋からなる一式の部屋で、2つの入り口にはそれぞれエアロックが設置されていた。旧火葬場の隣にあったSS病院の患者の防空壕として使用されていた。その新しい機能のために、建物の建設[Bauwerk]番号はクレマトリウムI(BW 11)からSS病院(BW 14)に変更された。クレマトリウムIに施されたその他の改造は、この図面には示されていない。火葬場の残りの部屋は、医療倉庫として使われていた。 

 

Page157

f:id:hotelsekininsya:20200901222931j:plain

建設管理部図面 4287 [b]
[PMO neg. no. 20818/2]

1944年9月21日、縮尺1:100、囚人57347による作図

Ausbau des alten Krematorium / 旧火葬場改修
Luftschutzbunker für SS Revier mit einem Operationsraum / 手術室を備えたSS病院の空襲用シェルター
Bestandplan für wasserversorgung und Kanalisation / 給排水に関する在庫図面

図面内文字の翻訳
図面4287[a]に既に表示されているもの以外

  • Klosset / トイレ       
  • Entlüftung / 換気      
  • Wasserleitung / 給水管      
  • Kanalleitung / 下水       

この図面は1944年12月28日、図面目録に登録された。トイレは下水道に接続されるようになった。換気扇があったとしても、どのようなタイプのものかは不明である。旧炉室と死体安置所の連絡扉はレンガで塞がれていた。医務室へは、かつて3号炉を照らしていた窓があった場所に設置された扉から入ることができた。解放後、この扉は取り外され、窓は再び取り付けられた。3基の火葬炉は解体されたが、金属部品は保管されていた。薪ストーブの床は、仮設の木製の床で覆われていたのだろう。医療倉庫の3号炉に通じる窓やドアも埋められた。建物の一部が空襲用のシェルターに改造され、1945年1月にSSがクレマトリウムIを放棄したときの状態である。

 

Page158

アウシュビッツ基幹収容所の
クレマトリアムIまたは「旧クレマトリウム」
施設の現況
  • Rendement pratique du crématoire I donné par la Baulleitung dans une lettre du 28 juin 1943: 340 corps en 24 heures / 1943年6月28日の建設管理部の書簡による、クレマトリウムIの実際の処理能力。24時間で340体。  
  • CHEMINEE (troisième edification)/ 煙突(第三版)
  • Portes: Porte pleine à trois panneaux de bois  
                  Porte vitrée dans sa partie supérieure
                  Porte présentée comme “étanche au gaz” /
  • ドア:   木製3枚パネルのソリッドドア
                   上部に窓のあるドア
                   ドアは「ガスタイト(気密性)」と表現
  • Trou circulaire d'un emplacement de ventilateur / 円形の穴:換気扇の設置場所 
  • Emplacement des restes du FOUR 3, nouveau modèle Topf au rendement amélioré par l'adjonction d'une soufflerie d'air pulsé [four non reconstruit] / パルスエアブロワーの追加で高効率化したトプフの新型炉「FURNACE 3」を設置[再建されず] 
  • Chariot d'introduction des corps retrouvé au camp à la Libération. / 解放後の収容所で発見された死体運搬用トロッコ 
  • FOUR 1 [Modèle Topf à deux creusets incinérateurs, plan no 57253 du 10.6.40] / FURNACE 1 [火葬用マッフル2本付きトプフモデル:1941年6月10日の図面57253] 
  • Ancienne cokerie renferment des parties métalliques restantes du four d'incinération du crématoire IV et trios fenètres de versement du Zyklon B ayant appartenu au crématoire IV ou V. / クレマトリウムIVの火葬炉の残りの金属部品と、クレマトリウムIVまたはVの3つのチクロンB導入シャッターを含む旧コークス倉庫 
  • Plaque tournante / ターンテーブル 
  • Rails de guidage de la plaque tournante / ターンテーブルのガイドレール
  • (les fours 1 et 2 furent reconstitués après la Libération selon les souvenirs des anciens détenus) / (解放後、囚人の記憶から1号炉と2号炉を復元)
  • Entrée principale / メインエントランス  
  • VESTIBULE(玄関ホール)  
  • Accès à l'ancien dépositaire, puis salle d'opération du bunker de protection aérienne renfermant actuellement l'ancien four d'incinération de l’Arbeitslager TRZEBINIA / トシェビニャ労働キャンプの火葬炉があった部屋(後に空襲防空壕の手術室となる)へのアクセス。 
  • Accès à la salle des fours / 炉室へのアクセス 
  • Rails de guidage des chanots / トロッコのガイドレール 
  • FOUR 2 / 炉2 
  • Fosse d’alimentation des deux foyers du four / 2つの炉のための供給ピット
  • Ancienne salle des urnes / 旧骨壺の部屋  
  • Four à huile lourde / 石油焚き火炉  
  • Ancienne salle de lavage des corps, incluse maintenant dans la chambre à gaz / かつての死体洗浄室、現在はガス室の一部を構成している 
  • Emplacement du mur séparant la salle de lavage de la morgue chambre à gaz / 洗浄室と遺体安置所ガス室を隔てる壁の設置  
  • Emplacement de la porte de communication entre la salle des fours et l’ancienne morgue / 炉室と旧安置室の間にある扉の元の位置 
  • Porte percée après la Liberation / 解放後に設置されたドア 
  • Cheminée d’aération supposée du bunker de protection aérienne / 空襲シェルター用と推定される換気用煙突  
  • Chambre à gaz (ancienne morgue) / ガス室(元死体安置所) 
  • 2ème sas d'accès au bunker / 第二防空壕エアロック 
  • Entrée du second sas du bunker, actuellement dite des victims / 防空壕の2つ目の入り口、現在は犠牲者用入り口と呼ばれている 
  • Orifice de versement du Zyklon B aménagé après la Liberation / 解放後に設置されたチクロンB導入用オリフィス 
  • Superficie de la chambre à gaz / ガス室の床面積
        - 現状: 98m² 4m² (air lock) = 94m²
        - オリジナル: 17.00m x 4.60m =78.2m²  

 

Page159

f:id:hotelsekininsya:20200901225342j:plain

現状把握のための作図
[Drawing and inscriptions by Jean-Claude Pressac (August 1985)]