PART FIVE アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所の実現不可能な未来

この資料は、ジャン・クロード・プレサックによる『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』を翻訳したものです。

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 目次 - アウシュビッツ ガス室の技術と操作 J-C・プレサック著

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PART FIVE

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所の実現不可能な未来

K Lアウシュビッツ・ビルケナウの実現不可能な未来

アウシュビッツ・ビルケナウの複合施設が将来どのような可能性を持っていたかは、これまで研究されてこなかったテーマであり、文献で議論されることもなかった。アウシュビッツ博物館の記録係が記憶している限り、この今や架空の進化に興味を持った人は2人しかいない。元囚人であり、現在の著者である。

KLアウシュビッツの開発には、大きく分けて3つの段階があった。

  1. 1940年7月、捕虜収容所または基幹収容所(アウシュビッツ1)創設。

  2. 1941年10月、ビルケナウに捕虜収容所(アウシュビッツII)創設。

  3. 1943年10月末、IGファーベン産業によるモノヴィッツアウシュヴィッツIII)での労働キャンプの建設。

基幹収容所は「保護拘禁」(Schutzhaft)収容所として開設され、シレジアからポーランド人捕虜を受け入れる予定であった。しかし、その急速な発展は、2度にわたる指令(ソ連人捕虜収容所の建設決定、ユダヤ人絶滅の決定)によって、やや遅れをとってしまった。その結果が、4つのクレマトリウムと多数のガス室を持つビルケナウKGL(「捕虜収容所」、名前は変えなかった)であった。捕虜収容所の犯罪的改造は、1944年の計画に従ってさらに推し進められることになったが、物的資源の不足のために実行に移すことはできなかった。しかし、政治的、人間的な面で絶対的な誤りを犯したこの絶滅の手段は、ドイツとその衛星国にとって戦争の結果がどうであれ、いずれにせよ取り壊される運命にあったのだ。

[メイン収容所の拡張と捕虜収容所の犯罪構造の強化という、完成前に中断されたこれら二つの計画の起こりうる展開について、残された証拠に照らして、絶滅のない未来と絶滅のある未来という二つの立場から検討する]

モノヴィッツ収容所は、ドイツの工業と直接結びついており、強制収容所システムの将来の「解決策」を示していた。それは、「千年帝国」の勝利またはその死の苦しみの中で奉仕する奴隷制である。1945年1月18日に放棄されたモノヴィッツの開発は、西でも東でも、戦後の社会が次第に工場に依存する労働力と、囚人小屋やバラックが公共住宅に取って代わられるようになることを予見させるものであった。「モノウィッツの原則」の改善は、有刺鉄線と武装警備員に代わって、かなり完全な自由がある欧米でより顕著に認識されるようになった。「自由主義」「社会主義」の両政権は、食事と木造3段ベッドに関しては、前者を十分に確保し、後者をまともなアパートや快適な住宅に置き換えることに、それぞれ程度の差こそあれ成功している。

 

PART FOUR CHAPTER 1 修正主義者によるアウシュビッツの説明

この資料は、ジャン・クロード・プレサックによる『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』を翻訳したものです。

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PART FOUR

CHAPTER 1 修正主義者によるアウシュビッツの説明

「Vergasungskeller」は
ガス処理地下室か、またはガス発生地下室か?

ビルケナウ・クレマトリウムⅡのLeichenkeller 1
あるいは「死体安置用地下室1」に関する
アーサー・ R・ バッツとR・フォーリソンの断言への返答  

1978年12月29日付の『ルモンド』紙に掲載されたロベール・フォーリソンの「ガス室の問題」あるいは「アウシュヴィッツの噂」という記事は、G・ウェラーズによる「豊富な証拠」と題する反応を引き起こした。その後、返信の権利として「フォーリソン氏からの手紙」が出版され、その権利によりG・ウェラーズが「インスピレーションを受けた小説」と題する文章で返信した。それでも負けを認めないフォーリソンは、「一つの証拠...たった一つの証拠」を要求する返事を新聞社に送ったが、『ルモンド』編集部は掲載を拒否した。このマスコミの書簡による決闘が、この問題を一般大衆に知らしめたという意味で、「フォーリソン事件」の発端となったのである。

ドイツ側の資料に忠実に、ジョルジュ・ウェラーズは1943年1月29日付の1通の手紙だけを用いて反撃した[資料1]。修正主義者のように推論するのではなく、生存者とSS自身の証言によって裏付けられ、認証されたこの文書で十分であると彼には思えた。実際、彼が手に入れた唯一の重要な「犯罪証拠」だったのだ。それは効果的で、フォーリソンは有効な反論をすることができず、愚劣に近い非常に弱い議論しかできなかった。

ウェラーズも、幸いフォーリソンも、1978年に提示されたこの手紙に含まれる「スリップ」が、歴史的に不完全で使用不可能であることに気づいていなかったのである。当時フランスでは知られていなかったが、その後、アウシュビッツ博物館文書館で発見されたクルト・プリュファーの明確な報告書が欠けていたのだ[資料2および2a]。

1943年1月29日の書簡だけにもとづいて、「Vergassungskeller」という用語がクレマトリウムⅡのLeichenkeller 1 / 死体安置用地下室1に設置された殺人ガス室を意味していると断言することは、無責任である、「ガス室」は正しいが、それが「殺人的」であるという証拠はない、これを実証するには、次の要素をすべて考慮し、いくつかの手順を踏んでいかなければならない。

  1. 1943年1月29日の書簡には、SSがクレマトリウムⅡのLeichenkellerのどれを指しているのか、明記されていない。図面932は、3つのLeichenkellerが計画されていたことを示している、番号1、2、3[資料3、4]。

  2. クレマトリウムIIの建設管理部の図面、番号1311と2003は、Leichenkeller 3が本来の目的とは関係のない他の機能のために改造されたことを示している。
     
  3. 設置責任者である技術者クルト・プリュファーの報告書には、型枠をまだ外せなかったのはLeichenkeller 2であると明確に書かれている。

  4. したがって、ビショフがVergassungskellerと指定した、唯一残ったLeichenkellerは、Leichenkeller 1である。彼の手紙は、何よりも、当面は「ガス室(ガス処理用地下室)」としてではなく、「死体安置室」、すなわち「死体安置用地下室」として使用するようにという意味である。

  5. この手紙は、SSがクレマトリウムIIのLeichenkeller 1をVergassungskeller/ガス室と呼んでいたことを示す。クレマトリウムⅡの地下にガス室が存在したことは、こうして証明されたが、それだけである。この「スリップ」が他のものと比較され、統一されるまでは、これが実際には殺人ガス室であったという証拠が圧倒的となることはないのである。

現在までのところ、この解釈に反論する有効な論証は修正主義者によって見つかっていない。アメリカのアーサー・R・バッツは、その著書『The Hoax of the Twentieth Century(20世紀のデマ)』(Historical Review Press, Brighton 1977)の第四章で、アウシュビッツについて次のように書いている。

さて、「Vergasung」という言葉には2つの意味がある。主な意味(技術的な文脈ではガス化、炭化、気化のいずれかを意味する)は ...いずれにしても、アウシュヴィッツの火葬場では、燃料と空気の混合物を炉に注入するために、「Vergasung」用の装置が必要であり、NO-4473[1943年1月29日の手紙]の翻訳は、おそらく「ガス発生室」に訂正されるべきであることは明らかである。私はこの「Vergasungskeller」の解釈を、ドイツの技術的に有能な情報源[!]に確認した」(121ページ)

フォーリソンは、NO-4373にやや驚き(控えめに言っても)、すぐに答えを見つけなければならなかったとき、『ル・モンド』誌の第二の記事で、純粋かつ単純に、そして、「弁護側の声明」85頁でバッツの主張をコピーし、愚かにも、


資料1

1943年1月29日、アウシュヴィッツ建設管理部長のビショフ親衛隊大尉から上司のカムラー親衛隊大尉への書簡。

[PMO microfilm No 205, volume 11 of the Hoess trial, Annex 5. certified by Judge Jan Sehn as being a true copy. Original in the PMO archives, file BW 30/34, microfilm 1060, page 100]  

下線部の翻訳

死体安置用地下室の鉄筋コンクリートの天井の型枠は、霜のせいでまだ外せません。しかし、ガス処理用の地下室が使えるので、これは問題ではありません。

註:「Vergasung」「gassing」は日本語では適切に訳せない。本来は「ガスする」という動詞的な意味なのであるが、そのような日本語はないのである。動詞の「gas」の意味を辞書で引くと「毒ガスで殺傷する」のような意味が出てくるが、それはそのような意味で使われるということであって、特に上の文書資料の読解のような微妙なケースには不適切な訳となってしまう。やむを得ず「ガス処理」のように表示しているだけであり、そのような意味は辞書には載っていないが、今のところそれ以外の表現を思いつかない。

 

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資料2

 

資料2a


資料2と2a: 

クレマトリエンII、III、IV、Vの建設に関する、トプフ&サンズ社の技術者クルト・プリュファーによる1943年1月29日付の報告書。

[PMO file BW 30/27, microfilm 130, pages 22 and 23, of Soviet source. Original in the PMO Archives, file BW30/34, microfilm 1060, pages 101 and 102]

下線部の翻訳

死体安置用地下室2の天井の型枠は、霜のためまだ外せません。

 

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Leichenkeller 1の吸排気システムを炉への空気供給と同化させた一文を付け加えているのである。

たとえば、私が引用した1943年1月29日の書簡(通常の「秘密」の表示さえない書簡)では、Vergasungは「ガス処理」ではなく、「炭化」(実際にはバッツが「ガス発生」を提案していた!)を意味している。Vergasungskellerは、火葬炉の燃料となる「気体」混合物を準備した部屋を指す。これらの炉と給気・排気システムは、エアフルトのトプフ・アンド・サンズ社(NO-4473)のものであった。

自分の主張の矛盾に気づいたフォーリソンは、「ピエール・ヴィダル=ナケへの返信」の中で、第16項目の下に第二版を提示した。

V-Nが第2火葬場の「ガス室」と呼んだり、洗礼したりしているのは、「Leichenkeller」、典型的な涼しい部屋であった....涼しい部屋は殺菌消毒されなければならない。そのために、彼らは、1917年に発明され、今日でも世界中で使われている殺虫剤チクロンBを使った! [下線は筆者)。

こうして、言葉にうるさいフォーリソンは、細菌学の歴史上初めて、最も一般的で効果的な殺菌剤である漂白剤を忘れて、殺虫剤で病原性細菌を駆除した人物となったのである。これはコメントするまでもないだろう。

最後に、私が発見した「Tagesbericht/タイムシート」には、クレマトリウムIVの西側の部屋が「Gasskammer/ガス室」であると民間人労働者が書いてあったことを受けて、フォーリソンは壁に背を向けて、次のように書いている。提案された、「ピエール・ヴィダル=ナケへの返答」第2版78頁の第3の絶望的なバージョン。「火葬場IVとVでJ-Cプレサックが疑惑を見出した二つの部屋は、殺菌消毒ガス室であったと思われる」[J-C.-P.による下線]。

クレマトリウムIIの「Vergasungskeller」は「ガス発生室」、クレマトリウムIVの「Gasskammer」は「殺菌ガス室」と訳され、かなり後退している。しかし、「殺人ガス室は存在しない」という神聖な公理は、いまだに変わっていない。

技術的な観点から、ブッヘンヴァルト、マウトハウゼン、アウシュヴィッツ・ビルケナウの強制収容所でトプフ社[第二部第一章参照]が設計・設置したさまざまなタイプの火葬炉を簡単に検討すると、それらはすべてガスの発生も炭化もせずに作動した[実際には、コークス燃料で作動したのだ!]。 バッツ(マサチューセッツ工科大学卒)が提唱した「ガス発生」に関する説や、フォーリソン(文学者・文書批判者)が提唱した、最初の「炭化分解」伝説、二番目の「消毒済み死体安置所」(ツィクロンB使用!)、最後の「消毒ガス室」[いずれにしても、「消毒」でなければ意味がない]という脱法的試みについて、その真価を評価できるようになるのである。

1943年1月29日のこの書簡を強調し、修正主義者に対して利用した功績は、疑いなくG. ウェラーズ神父にある。この書簡は、プリュファーの報告とともに、非常に重要な証拠を提供しているが、それ自体、ビルケナウ・クレマトリウムⅡの地下に殺人ガス室が存在したことの絶対的証拠とはなっていない。


資料3
1942年1月23日付の図面932
[BW 30/01 PMO neg. nos. 17079 and 20818/3]

Entwurf für das Krematorium - Grundriß von Untergeschoß
/ 火葬場の計画図-地下の平面図。当初は基幹収容所の新しい火葬場として計画され、ビルケナウ火葬場IIとなる予定だった建物。


資料4

Leichenkeller 1, 2 u. 3 / 死体安置用地下室1、2、3」とそれに関連する設備を描いた図面932(上)の地階部分。 

図面内の文字の翻訳

  • voir feuille rectificative plan no 1311!! / 補正シート - 図面 1311 を参照してください !
  • LEICHENKELLER 2 / 肢体安置用地下室2      
  • LEICHENKELLER 3 Gang / 廊下      
  • Rutsche / [死体] シュート      
  • Vorraum / 前庭
  • Aufzug / [死体]リフト

LEICHENKELLER 1= VERGASSUNGSKELLER
死体安置用地下室1 =ガス処理用地下室      

 

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写真1
[June 1944, revisionist source]

モノヴィッツの「ブナ」全景。I.G.ファーベンインダストリーの石炭水素化複合施設で、ブナ法による合成ゴムとベルギウス法による合成燃料(メタノール)を月産778,000トン生産するために建設された。 


写真2
[1942, revisionist source]

クリニックX線部門。所在地不明。


写真3
[1942, revisionist source]

大食堂。所在地不明。


写真4
[1943, revisionist source]

ウクライナの女性合唱団。場所:写真3の食堂。

 

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写真5
[1942, revisionist source]

作業台で見習い。場所を特定することは不可能。


写真6
[1942, revisionist source]

「Sport – Fencing “Betriebssportgemeinschaft JG Auschwitz / アウシュビッツ企業青年団 [?] スポーツ協会」


PART FOUR

CHAPTER 2 修正主義者の言うアウシュビッツ

有名な休暇収容所KL AUSCHWITZの写真展 

リビジョニスト世界の紹介

「K L アウシュビッツ-ビルケナウは絶滅収容所? 神話か! このシートと次のシートにある写真から、そのようなことはないことがわかる。アウシュビッツは、他の多くの収容所と同じように、単なる労働収容所だった。ユダヤ人であろうとなかろうと、囚人たちは何よりもモノヴィッツの巨大なBUNA複合施設の建設に従事した[写真1は全体のほんの一部]。病気になれば適切な治療を受けることができた[写真2X線検査を受ける縞模様の制服を着た囚人]。食堂は非常に広く[写真3]、端のステージでは定期的にいろいろなアーティストが来て演奏していた[写真4ウクライナの女声合唱団]。若者たちは、寄生虫として生きるのではなく、ドイツの模範的な企業で役に立つ職業を教えられた[写真5]。余暇にはスポーツ大会などに参加した[写真6:フェンシング競技]。これが、写真で証明されたアウシュビッツの素顔であった」

以上、多くの修正主義者の考えを忠実に要約し、何よりもその精神を裏切っていないと確信している。

写真1は、確かにブナ複合体の一部を写したものである。昼休みになると「Buna Suppe」という色のついた液体が1リットルから半リットル配給され、囚人たちはそこで働いていた。写真2X線検査を受ける患者は囚人ではなく、普通のパジャマを着ている。もし、そのような施設があったとしても、それはSSとその家族のために用意されたものだった。食堂と音楽の夕べは、清掃やメンテナンスに従事する者以外の一般の囚人には開放されなかった。SS部隊の食堂であった。写真5の囚人見習いは、アーリア人らしく、ストレートな分け目で、「ゼブラ」のようなスーツもなく、あまりに端正で、事実と異なる。ユダヤ人の青年たち? その半分は、第三帝国の人種理論家が愛した金髪である。フェンシング競技については、旗の鉤十字と右側の剣士がつけているバッジ、観客の中にSSとSAの幹部、制服を着た党員、警官がいることから、これが「帝国軍人」のための集まりであり、「健全な」要素だけで、他のものはないことがわかる。

私は、修正主義者の資料によるこれらの写真の正確な出所を知らない。これらは、確かに、示された年にアウシュヴィッツで撮影されたものであるが、アウシュヴィッツ強制収容所とその囚人、さらには、ビルケナウとそのクレマトリエンとは何の関係もないはずである。

 

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アウシュビッツの囚人たちの生活について、同じように牧歌的な「記録」は他にもある。例えば、無作為に選ばれた「グリーン」[一般的な犯罪者]のカポのことである。私服のズボン、ゼブラ柄の上着はキャンプの仕立て屋が誂えてくれたもので、Mütze(ベレー帽)も同じものであった。靴職人が自分のサイズに合わせて作った良いブーツを履いていた。食料の供給は、模範的な「組織」で、1日3000〜4000キロカロリーを供給し、キャンプの余暇活動に積極的に参加できるよう、体調を万全に整えたのだ。軽音楽や軍楽のコンサート、中央サウナや他の場所での映画上映、クレマトリウムIIIの近くのビルケナウ運動場で組織された日曜日のサッカー試合、モノヴィッツでのボクシング試合、天気のよい日には、泳ぎを習った基幹収容所のプール[写真8から12]で入浴、最後に、ある夜、軽い仕事のために豊富な余力を使うために、ブロック24の売春宿が彼を歓迎して扉を開けてくれた。優秀な歯科医が、アウシュビッツの菓子パンによる虫歯を治療してくれたのだ。見苦しく厄介な嚢胞も、知り合いの囚人外科医に手術してもらった[写真7、上、中、右]。 

1945年1月、彼は名残惜しそうにこの好天の地を後にした。戦後、疲弊したドイツで、収容所の元親衛隊員に会うたびに思い出を語り合い、「古き良き時代」を懐かしまずにはいられなかった。数十年後、ある歴史家にアウシュビッツガス室について質問された時、「確かに噂は聞いたが、実際に見たことはない」と答えた。

この安楽に暮らす(living in clover)カポの話は、真実で検証可能な 、事実に基づいており、その限りでは本物である。しかし、このような生活をしているカポはごくわずかで、彼らの「贅沢」な食事は、平均的な囚人の配給品から取ったもので、囚人は1日最大800から1000カロリーしかなく、3ヶ月間かろうじて生きていけるだけのものであった。「洒落たカポ」は、自分の担当する飢えた羊を叩いて、自分の権威を主張することも嫌いではなかった。中には、死んでしまった人もいるが、点呼の時に死体があっても問題はない。

修正主義者の戦術は、このような本物の、しかし例外的なケースを一般的な状況として提示することである。


写真7
Page 8 of the “Bauleitung Album”, conserved by Yad Vashem and PMO neg. no. 20995/39.

6ページで紹介、[PMO neg. no. 20995/27] タイトルは「Ausbau der Schutzhaftlagers / 保護収容所完成」

場所:Stammlager / 基幹収容所 

 

Page509

中央収容所「プール」

この空(からっぽ)の水槽は、一度水で満たされたものであり、修正主義者にとっては、アウシュヴィッツ強制収容所に水泳プールが存在したことの明確な証拠であり、計り知れない価値がある。その重要性については、あえて説明する必要はないだろう。この施設の存在は、いわゆる「絶滅」とは相容れないと考えられている。

この水槽は、実は消防用の貯水池として作られたものであるが、明らかにプールとしても使えるように改造されたものである。修正主義者たちは、夏には囚人たちがその中で泳いでいたと主張している。私は、このやり方はSSだけのものだと確信しているので、その証拠を写真で見せてくれるよう頼んでいる。プールの存在は、ビルケナウでのガス処刑に対する否定的証拠としては価値がない。クレマトリウムⅡの裏庭では、ゾンダーコマンドとSSの間でサッカーの試合が行われていた。クレマトリウムIIIの東側には運動場があり、カポや班長が、常に飢餓状態にある大多数の囚人から奪った余分なカロリーを消費することができたのである。


写真8

ブロック6と捕虜収容所(基幹収容所)の南東の鉄条網の間にある「消火用貯水池/プール」の北東端。低い飛び込み台の眺め。


写真9

貯水池・プールの全景、東方向。


写真10:

貯水池・プールを南西から見て、一番奥に高い飛び込み台がある。


写真11

高い飛び込み台、南北の景色。 


写真12

高い飛び込み台、南北の図。飛び込み台そのものは欠落している。 

 

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建設管理部が提示した
KLアウシュビッツ・ビルケナウ 

建設管理部アルバムの8ページ上部の3枚の写真[写真7]は、中央収容所の本物の設備であり、人的・物的可能性に応じて機能したはずである。これらの写真の有効性は認めざるを得ないし、純粋なプロパガンダとして片付けることはできない。その目的は、赤十字のような人道的組織を惑わすことではなく、収容所を訪れるSSの上層部にアウシュビッツ建設管理部の活動を有利に見せることであり、そのような写真集が頻繁に提示されていたのである。

写真13、14、15、16、17、18、19は、ビルケナウの建設第2段階[KGL Bauabschnitt II]に関するものである。それらは『アルバム』の73ページに掲載されており、特に保健衛生サービスの組織に関するものである[このページに掲載されているジプシー収容所の消毒設備に関するPMO neg.第20995/420号は、Part1、Chapter6「ジプシー収容所の消毒設備」に再録されている]。松の木や筵(むしろ)、布などを「美化」するために導入した以外は、BA.IIの一部の囚人たちの生活環境は、やや荒涼としたものであった。床はコンクリート、寄木細工、レンガなど。他のバラックでは、土がむき出しになっていた。トイレのボウル[写真19]は、キャンプのあちこちに設置されている標準的なモデルである洗面桶[写真18]とは異なり、珍しいものであった。写真17、18、19は、大多数の囚人が排除された現実を映し出している。

写真13、14、15、16の健康設備に関する囚人の数の問題が生じ、その設備の哀れなほど不十分であることが明らかになった。薬局の戸棚にある製品で、どれだけの患者を治療することができるだろうか? 確かに、半分以上空っぽの病室に映し出された数人の人たち[写真16]。2枚の写真は調和している。しかし、大病棟の写真17では、写真16によく出てくる体温表はどこにあるのか、写真14の小さな薬局はこれだけの人数に対応していたのか、という疑問が湧く。下痢をした囚人が上の寝台に横たわり、動くことができず、自分の排泄物で汚れ、熱に苦しみ、その治療は紐で付けられたアスピリンを2回ではなく1回吸うだけで、飲料水はほとんどろ過されず、状態を悪化させているという卑劣な現実は、ビルケナウでは、機能的なタイトルのついたこれらの写真が、その無意味さのために悲劇的にシニカルであることを証明しているのである。


写真13
[PMO neg. no. 20995/414]

「手術室」


写真16
[PMO neg. No. 20995/416]

「囚人用病室」


写真17
[PMO neg. No. 20995/419]

「囚人用病室」 

 

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写真14
[PMO neg. no 20995/417]

「研究室」


写真15
[PMO neg no 20995/418]

「薬局」  


写真18
[PMO neg. no. 20995/421]

「洗面所」 


写真19
[PMO neg. no. 20995/422]

「トイレ」  

 

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写真20の図は、修正主義者にとってはまさに神からの贈り物である。ビルケナウの第3建設段階[KGL Bauabschnitt III]の最初の配置に関しては、これは検疫と病院の混合収容所としてのみ機能すると正式に述べている。公式の歴史によると、人々が大規模に絶滅された4つのクレマトリウムから数百メートルのところに、健康収容所が作られたことには、相容れないものがある。BA.IIIのために計画された病気の囚人のためのバラックの図面2471[写真21]は、寝台の配置を詳細に示しており、この実証を裏付けている。この2つの図面は、建設管理部が4つの新しいクレマトリウムの建設を完了した1943年6月のものであり、KGLビルケナウが医療と絶滅という2つの相反する機能を同時に持つことができなかったことは明白である。BA.IIIの非常に大きな病院部分の建設計画は、クレマトリウムが、SSが強制収容所の労働力を「維持」したかったので、殺人ガス処刑をすることなく、純粋に焼却のために建設されたことを示している。

この主張は論理的であり、反論するのは簡単ではない。図面は存在し、しかもベルリンのSS経済行政管理本部からのもので、地元の人道的な取り組みではなかったのだ。

しかし、ある発言と、なによりも別の建設管理部の図面[写真22]は、このもっともらしい、しかし理論的な推論と矛盾している。ビルケナウでは生と死が隣り合わせだったので、唯一機能していた病院部門B.IIfはクレマトリウムIIIとIVのすぐ隣にあった。この悲惨な劇場の最前列に配置された病気の囚人たちは、選別が行われ、あるいは死ねば、この建物の中で灰にされることを知っていた。

親族を全滅させ、自分たちにもいつでも同じことができるクレマトリウムのすぐ外で、囚人たちが医療のようなものを受けるべきだったというのは逆説的に見えるかもしれないが、それは、命令がまったく矛盾していても盲目的に実行したSSヒエラルキーの「doublethink(二重思考 )」(『1984』でジョージ・オーウェルが使った造語)の能力を無視したことになるだろう。

図面2521が単なる計画であったことを証明する決定的な論拠は、ビルケナウの全体図、1944年3月23日の図面3764[写真22]と比較することである。BA.IIIの収容人数は計画時の16,600人から60,000人に、つまり兵舎の収容人数は4倍に増え、混雑の程度はBA.IIと同等になったのである。これでは、「病院兵舎」なんていうのはナンセンスだ。

ビルケナウの第三建設段階、収容所用語で「メキシコ」は、一方では完成せず、ひどい衛生状態をもたらし、他方では、存在した部分は、1944年5-6月、クレマトリウムが流入に追いつかず、ハンガリー輸送のための通過収容所となった。BA.IIIに建てられたバラックは、当初予定の半分にも満たなかったが、1944年11月から12月にかけて解体され、その部品はグロースローゼンに運ばれたようである。BA.IIとモノヴィッツの収容所の大部分は、収容所解放後に解体され、ワルシャワ郊外に運ばれ、この街に戻ってきた生存者のための緊急住宅として、今日まで続いている辛い再建の過程を待ったのである。

これらの図面(1943年6月30日の計画と1944年3月23日の実際の状況)を比較すると、計画された建設が必ずしも実行されたわけではなく、計画は必要に応じて変化していたことがわかる。このプロセスは事実上組織的なものであり、ビルケナウの全体計画、消毒ガス室を作るためのBW5a、5bの改造、大量殺戮を実行するためのクレマトリウムの適合に見ることができる。

アウシュヴィッツの図面の一部がベルリンで作成されたという事実は、異常な手続きであるが、戦後、たとえば、クレマトリエンの主要「建築家」の一人であるウォルター・デジャコ少尉が、これらの犯罪施設の設計はベルリンのSS本部からもたらされたと弁明するために使われた[ロイトでのゲオルク・マイヤー博士その他の裁判、62/3/4の審理]、これらの建物の残りの図面の大半を調査し比較すれば、それが事実でないことがわかるだろう。


写真20:
建設管理部図面2521
[PMO neg. no. 20943/18]

アウシュビッツ収容所 第三次建設段階
検疫部門と囚人病院

1943年4月6日、ベルリンで描かれたもの。
43年6月30日、アウシュビッツ建設管理部にて受領。
図面番号2521に分類される
ビショッフの署名入り
16,596人の受刑者を収容可能。

 

Page513

写真21
建設管理部図面2471 (?)
[Source: CDJC]

アウシュビッツ強制収容所-病気の囚人のためのバラック
1943年5月6日、ベルリンで描かれた。
アウシュヴィッツ建設管理部によって図面2471(?)として分類された
144名の受刑者を収容可能。
[2521と同じ図面シリーズの一覧]

 

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写真22
建設管理部図面3764
[PMO file BW 2/38]

捕虜収容所の位置図。
[作業現場]2 捕虜収容所
縮尺 1:5000.
図面3764.
1944年3月23日、囚人63003によって描かれた。
民間人労働者タイクマンによってチェック。
ヴェマー・ヨータンWemer Jothann親衛隊大尉が44年3月24日に承認。


 

Page515

フォーリソンの小冊子からシート上の文字を翻訳したもの。

PLAN DE BIRKENAU / ビルケナウの計画

[図の上の余白にタイプされた]:

plan réel d'après toutes publications antérieures
     Ici, publication du musée d'Auschwitz 
過去のすべての出版物によると、真のプラン。
     ここでは、アウシュビッツ博物館が公表したものを紹介する。

[上図の出典]

KL Auschwitz, Photographic documents, Krajawa Agencja Wydawnicza, Warsaw 1980. 

[図の下の余白にタイプされた]

    d'après “l’Album d’Auschwitz” / 『アウシュビッツ・アルバム』によると 

[下図の出典]

l’Album d’Auschwitz”,  page 42, Editions du Seuil, Paris 1983

フォーリソンによる手書きの加筆

COUPURES / カット  

ARTIFICE / トリック

  • クレマトリウムIIIに隣接する囚人用サッカー場の存在は、「Secteur Hôpital / 病院部門 」という表記で隠されている。

Album d’Auschwitz』のオリジナルの文字

Nord / 北  
Zentral Sauna[風呂と消毒]  
Kläranlage I / 下水処理場I  
Pumpenanlage / ポンプ場   
Crématoire II / クレマトリウムII 
Voie 2 / トラック2   
Kläranlage II / 下水処理場II  
Effektenlagerstraße / 荷物収容所の道   
Crématoire IV / クレマトリウムIV  
Ringstraße / 周回路 
Crématoire V / クレマトリウムV 
Réserve d’eau / 貯水池  
Fosses de décantation provisoires / 仮設デカンテーションベーシン
Canada II / カナダII 
Camp des femmes / 女性収容所 
Entrée / エントランス 
Voie 1 / トラック1
Hauptstraße a / 主道路a 
Hauptstraße b / 主道路b 
Quai a / プラットフォームa 
Quai central / 中央プラットフォーム 
Quai b / プラットフォームb 

Secteur Hôpital / 病院部門 
Camp des Tziganes / ジプシー収容所 
Camp des hommes / 男性収容所
Industriestraße / 産業道路 
Camp des Hongroises / ハンガリー人女性収容所 
Camp de Theresienstadt / テレージエンシュタット収容所

Lagerstraße / 収容所道路

  1. Quai a / プラットフォームa
  2. Quai b / プラットフォームb
  3. Quai central / 中央プラットフォーム(選別)
  4. Entrée de la Lagerstraße A / 収容所通りAからの入り口
  5. 収容所通りA
  6. 大通りa 
  7. B.IIe camp des Tziganes / ジプシー収容所 
  8. B.II.f Secteur Hôpital / 病院部門  
  9. B.III les barraques des effets / 荷物バラック 
  10. Effektenlagerstrasse A
    カナダII 
  11. Entrée du B.I / B.Iへのエントランス  
  12. Place d’appel du B.II.c camp des Hongroises/ B.IIcハンガリー女性キャンプの集合場所 
  13. カナダII 
  14. 大通りb  
  15. Entrée du Crématoire II / クレマトリウムⅡへのエントランス
  16. Le Birkenwald / 白樺の森 
  17. Face au Crématoire V / クレマトリウムIVに面する

Les numéros en chiffres arabes gras correspondent aux zones de prises des photographies par les SS, classées dans l’ordre de l’Album 
太字のアラビア数字はSSが撮影した地域に対応し、アルバムの順番に分類されている。


図面3764[写真22]は、1983年11月にSeuil社から出版された『Album d'Auschwitz 』の写真の配置の基礎として使われ、私は、オリジナルの英語の文章に歴史の詳細を加え、写真の順序を入れ替え、ビルケナウ・クレマトリエンの4つの付属施設を加えてフランス語版を作成した。

Album d'Auschwitz 』が出版されるやいなや、1983年12月9日付けのフォーリソンの署名入り小冊子が、さまざまなメディア関係者から届き、私を裏切っていると非難した。

"強制移送の犠牲者の原因..." "数々の小細工によって" "その一例がここにある。

  • 強制移送された人々の歩んだ道がクレマトリエンⅡとIIIで終わったと思わせるために、[著者は]アウシュヴィッツ・ビルケナウの計画を切り捨ててしまったのである。
  • 実際には、この道は大きなシャワーと消毒(sic)センターである「Zentral Sauna」まで続いていた。
  • 以下に見るように、我々は不当に行われた2つの切断を矢印で示し、すべての標準的な著作物に掲載されているキャンプの真の計画を提示する。 

この文章の裏面は、ここに掲載したページ[写真23]であり、10ページにわたる猛烈な批判の前文であったが、私は掲載の必要がないと判断して、簡単に反論することができた。

R. フォーリソンという「教授」は、殺人ガス室の存在を否定することに新参者であるどころか、すでに20年の人生を捧げており、独自の考えを持つことができるが、よく知られた学問的方法で、他人の仕事を流用することもやぶさかでない。彼は、「新しい歴史的事実」の出現を嫌っており、少なくとも「事件」の当初は、ビルケナウのガス室の実在を証明するフランスで知られている珍しい(二つの)説得力のある文書に反論しようと、思わせぶりな知的努力をしなければならず、すでに疲れきっていたのである。それ以来、彼は、1983年4月26日のパリ控訴院第一室A部判決により、「彼(Rフォーリソン)に対してなされた表面的な非難は、妥当性を欠き、飽和的に立証されていない」、現時点では「誰も偽りの証拠を立証できない」という趣旨の「法的評判」を得て生きているのである。このように、彼の歴史的な調査方法は「認められている」のだが、それは彼が本当に著者であるならば当然であり、まだ証明されてはいないのだが、彼が厳密な真実を見つけることを恐れて、研究を限界まで進めなかったことは事実である。しかも、この判決によって、自分を「捏造者」と非難する者は誰でも法廷に引きずり出すことができるのだから、おかしな話である。

建設管理部の原画とSeuilの原画を見比べると、私がいかに卑怯な真似をしたかがよくわかる。もし、フォーリソンが捕虜収容所の計画が気に入らなければ、元アウシュビッツ建設管理部に申請すれば、喜んで、すべて異なる約40の他の計画を見せてくれるであろう。フォーリソンにとって不運なことに、これらの図面は東ヨーロッパのオシフィエンチムにあり、彼がこれまで頻繁に非難してきた「Polono-Stalinist」の偽作者の手に渡っているのである。彼が言及している「標準的な著作」に関しては、最初の具体的証拠が1946年にポーランドで出版された『Biuletyn I, Glownej Komisji Badania Zbrodni Niemieckich w Polsce』[ポーランドにおけるドイツ人犯罪調査中央委員会の会報I]であり、アウシュヴィッツの章が含まれているが、それは、ヤン・セーン判事によって書かれ、ビルケナウ収容所を表すために44/23のまさに建設管理部図面3764 [page 64, illustration 7] が選択されたと指摘しなければならないだろう。私は、この図面が明確であるため、よい選択であったと思う。