PART FIVE アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所の実現不可能な未来

この資料は、ジャン・クロード・プレサックによる『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』を翻訳したものです。

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 目次 - アウシュビッツ ガス室の技術と操作 J-C・プレサック著

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PART FIVE

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所の実現不可能な未来

K Lアウシュビッツ・ビルケナウの実現不可能な未来

アウシュビッツ・ビルケナウの複合施設が将来どのような可能性を持っていたかは、これまで研究されてこなかったテーマであり、文献で議論されることもなかった。アウシュビッツ博物館の記録係が記憶している限り、この今や架空の進化に興味を持った人は2人しかいない。元囚人であり、現在の著者である。

KLアウシュビッツの開発には、大きく分けて3つの段階があった。

  1. 1940年7月、捕虜収容所または基幹収容所(アウシュビッツ1)創設。

  2. 1941年10月、ビルケナウに捕虜収容所(アウシュビッツII)創設。

  3. 1943年10月末、IGファーベン産業によるモノヴィッツアウシュヴィッツIII)での労働キャンプの建設。

基幹収容所は「保護拘禁」(Schutzhaft)収容所として開設され、シレジアからポーランド人捕虜を受け入れる予定であった。しかし、その急速な発展は、2度にわたる指令(ソ連人捕虜収容所の建設決定、ユダヤ人絶滅の決定)によって、やや遅れをとってしまった。その結果が、4つのクレマトリウムと多数のガス室を持つビルケナウKGL(「捕虜収容所」、名前は変えなかった)であった。捕虜収容所の犯罪的改造は、1944年の計画に従ってさらに推し進められることになったが、物的資源の不足のために実行に移すことはできなかった。しかし、政治的、人間的な面で絶対的な誤りを犯したこの絶滅の手段は、ドイツとその衛星国にとって戦争の結果がどうであれ、いずれにせよ取り壊される運命にあったのだ。

[メイン収容所の拡張と捕虜収容所の犯罪構造の強化という、完成前に中断されたこれら二つの計画の起こりうる展開について、残された証拠に照らして、絶滅のない未来と絶滅のある未来という二つの立場から検討する]

モノヴィッツ収容所は、ドイツの工業と直接結びついており、強制収容所システムの将来の「解決策」を示していた。それは、「千年帝国」の勝利またはその死の苦しみの中で奉仕する奴隷制である。1945年1月18日に放棄されたモノヴィッツの開発は、西でも東でも、戦後の社会が次第に工場に依存する労働力と、囚人小屋やバラックが公共住宅に取って代わられるようになることを予見させるものであった。「モノウィッツの原則」の改善は、有刺鉄線と武装警備員に代わって、かなり完全な自由がある欧米でより顕著に認識されるようになった。「自由主義」「社会主義」の両政権は、食事と木造3段ベッドに関しては、前者を十分に確保し、後者をまともなアパートや快適な住宅に置き換えることに、それぞれ程度の差こそあれ成功している。