PART FIVE CHAPTER 1 絶滅させない捕虜収容所という頓挫した未来

この資料は、ジャン・クロード・プレサックによる『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』を翻訳したものです。

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 目次 - アウシュビッツ ガス室の技術と操作 J-C・プレサック著

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PART FIVE

CHAPTER 1 絶滅させない捕虜収容所という頓挫した未来

1941年、1942年に計画されていた
KLアウシュビッツ(捕虜収容所)の
将来像を調査する試み 

オシフィエチム(アウシュビッツ)の保護収容所、後に強制収容所は、ナチスポーランド的であると考えたこの地域にドイツ人居住地または植民地(Siedlung)を開発するための一環であった。ユダヤ人絶滅命令が下され、収容所の様相が一変する前に、建設管理部は東部行進(Eastern Marches)の「SSモデル」となるような開発計画の作成を依頼されたのである。

このプロジェクトは非常に重要視され、ベルリンから建築家が現地に赴き、作業を行なった。アウシュビッツの新司令部(Kommandantur)の「セレモニーホール」の芸術家の印象には、想定された建物のスタイル、質、パワーが完璧に反映されている[資料1]。親衛隊の建設した壮大な建造物は、1000年続くことを想定していた。

アウシュビッツの町の開発計画には、大きく分けて3つの要素があった。

  1. 強制収容所の拡張と再編成、旧ポーランド兵舎をベースにした労働力のプール、北側に隣接する家族用宿舎を備えた記念碑的なSS団地の建設などである。西側には工業地帯が広がっていた。[資料3は、プロジェクトの全体計画である。資料1、2は新駐屯地本部内部のアーティストインプレッション、資料4~10は駐屯地北部のSS宿舎の立面図、平面図である]

  2. アウシュビッツの町とその中心部を再編成し、軍事・工業都市として設計。東側には、街と外界をつなぐ重要な役割を果たす鉄道の駅がある。強制収容所は、駅とソラ川と旧市街の間のザソーレ地区にあるが、SSにとっては、領土的にも行政的にも法的にもアウシュビッツ市とは別物であり、所属することはなかった。それは、単に労働者階級の「高度に集中した」郊外というだけであった。旧市街を中心に3つのドイツ人居住区が設けられることになった。ブロニー(鋳物)、ドウォリー(西)、オシエドル(南)である。ソラ川(東)とヴィスワ川(北)にかかる橋の数は、戦前の8倍となる予定であった[資料11アウシュヴィッツ地域の開発計画。資料12アウシュヴィッツの町の開発計画、資料13、ナチ党のコミュニティ・センター、正確な場所は不明だが、なぜかこのIGファルベン・インダストリ地帯の近く、資料14、新都市のフォーラムの計画、東地区、資料15、旧都市の再開発計画の模型、資料16、おそらく南地区にある住宅地の模型の部分図]。

    逆説的なことに、1942年9月から10月にかけて作成されたアウシュヴィッツの町の開発計画が「秘密」とされたのに対して、1942年1月の火葬場の計画はそうではなかった。しかし、1月の図面は、その存在を明らかにすることができるごく普通の火葬設備に関するもので、犯罪道具への転用が想定されると状況は一変する。一方、アウシュビッツの町の開発計画、つまり図面は、ドイツの戦争に直結しており、合成燃料工場という重要な要素の存在もあった。進行中の紛争から見れば、パン屋のような建物の設計図よりも、アウシュビッツ地区のドイツの工業プロジェクトについて連合国が知ることの方が価値があっただろう。

  3. モノヴィッツにIGファルベン産業が合成燃料(メタノール)と合成ゴム(ブナ工場)を製造する巨大な工業団地を設置する。この産業センター はシレジア炭鉱の盆地に位置し、石炭を原料とした工業の中心地であった。技術者と技能者はドイツ人または他の枢軸国の国民、半熟練労働者は占領国の強制労働制度で供給、未熟練労働者は戦争捕虜と収容所からの抑留者であるとしていた。

    収容所の南側に2カ所、駅の北西に1カ所、ドヴォリーの北側に1カ所、計3カ所の工業団地が建設されることになった。実際に建設されたのは、収容所南側の工業地帯とモノウィツ団地だけである。

資料1
[PMO neg. no. 20944/2]  

Skizze z. Kommandantur “Feierhalle”
駐屯地司令部の「儀式殿」のスケッチ

このスケッチには1942年の日付が入っているが、作者のイニシャルは不明である。このスケッチには新司令部ビルのホールの内部が描かれているが、内部の配置を示す図としては資料1と資料2しか知られておらず、BW/Worksite173.の詳細図がないため、正確に位置を特定することはできない。

 

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資料2
[PMO neg. no. . 20944/1] 

作者不詳のスケッチ。右上にある手書きの銘文「hol z kommandanture / 駐屯地司令部ホール」はポーランド語由来と思われる。

このスケッチは、資料1、BW173と同じ建物の内部を描いたもので、正確な位置は不明である。記念碑的な階段の上部にある1階部分を示しているようである。 


資料3-図面内の文字の翻訳(左から右へ、区画ごと)

サンドリー:

  • Nach Raisko / ライスコへ 
  • Sola / ソラ川 
  • Pferdestalle / 厩舎  
  • Reit- und Turnierplatz / 乗馬・競技場 
  • Deutsche Ausrüsnungswerken / ドイツ部品製作所[DAW, 親衛隊の一事業]
  • Erwriterungsgelände für die Ausrüstungswerken / DAWの拡張用地

新駐屯地司令部:

  • Garagenhof / 車両基地 
  • Parkplätze / 駐車エリア 
  • Einfahrt KL / [車両]収容所入口 
  • Kommandatur / 司令部 
  • Kasino / カジノ 
  • Ausstellungspavillon / 展示会場 
  • Truppenunterkünfte / 部隊の宿泊施設 
  • Wirtschaftsbaracke / サービス棟 
  • Wasserturm / 給水塔 
  • Fernheizwerk / 地域暖房施設 
  • Neue Brüeke / 新しい橋

強制収容所

  • Wäscherei-Gebäude / ランドリー棟  
  • Schutzhaftlager / 保護収容所 
  • Krankenhaus / 病院  
  • Gefägnis / 刑務所 
  • Geplante Erweiterung des Schutzhaftlagers / 保護収容所の延長を予定
  • Wache / 警備

強制収容所SS

SSの家族寮

  • Gasthaus / ゲストハウス 
  • Hauptzufahrt [u. Einfahrt] zur Siedlung / 家族寮への主なアクセス[および入り口]。 
  • Rathausverwaltung / 市役所
  • Stadtturm / 時計台 
  • Hotel 
  • Kaffee / カフェ 
  • Läden / 店 
  • Arkaden / アーケード
  • Brunnen / 噴水  
  • Garagen / ガレージ 
  • 幼稚園  
  • Schule / 学校  
  • Volkshalle-HJ Heim-Kino / コミュニティホール、ヒトラーユーゲントハウス、映画館 
  • Bahnhofplatz / 鉄道広場 
  • Nach Auschwitz / アウシュビッツ

スポーツ競技場

  • Stadion / 競技場 
  • Parkplätze / カーパーク 
  • Haupteingang zum Stadion / 競技場へのメインエントランス
  • WC 
  • Läden / 店 
  • Gaststätte / レストラン  
  • Tennisplätze / テニスコート 
  • für Turniere / 競技会用 
  • Klubhaus / クラブハウス
  • Tribüne / スタンド
  • Tribüne für Veratnstaltungen auf den Wasser / 水上開催イベントのスタンド 
  • Umkleideräume / 更衣室

旧橋エリア

 

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資料3
[PMO neg. no. 20931/3] 

KONZENTRATIONSLAGER AUSCHWITZ. Generalbebauungsplan — KL und Siedlung im Maßstab 1:20,000
アウシュヴィッツ強制収容所総合開発計画 - 強制収容所と住宅 縮尺 1:20,000

原画はカラーで非常に大きく、本収容所から旧アウシュビッツ橋までの展開図が、本物のプロによって見事に描かれている。日付、番号、製図者名などはないが、おそらく1941年か1942年のものであろう。


資料3a:

新駐屯地司令部(BW173)の平面図を、既存の図面と同様にVII、VIII、IX、Xの4セクションに分割したもの。     

展開図の下にある小さなスケッチは、1942年12月14日付の7枚の既存図面に描かれていた、新駐屯地本部北翼(BW/第173工区)のSS居住区のレイアウトを示している。58A、57A、56A [トラクト/セクションVII]。61A(セクションVIII)、64A(セクションIX)、62A(セクションIX-X)、65A(セクションX)は、ベルリンから派遣され、1942年12月31日までアウシュビッツ建設管理部で働いた建築家、ヴェルクマン1名の指示で作成された。この7枚の図面が、開発計画の規模を表している。

 

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資料4
[PMO neg. no. 21136/7]  

Kommandantur - Unterkünfte / 駐屯地官舎
1942年12月14日付の図面58A
縮尺 1:100 

  • Südansicht /  南立面図       
  • Nordansicht u. Scnitt A-B /  北側立面図とA-B断面図

セクションVIIの南側と北側の風景       

 

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資料5
[PMO neg. no. 21136/5] 

Kommandantur-Unterkünfte / 駐屯地官舎
1942年12月14日付の図面57A
縮尺 1:100

  • Dachgeschoß / ルーフスペース      
  • Obergeschoß / 上層階

屋上及び上層部の平面図。VII 部の位置を示す縮尺1:2000 の状況図。
この建物には104名のSS曹長(上級下士官)が収容される予定だった。 

 

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資料6
[PMO neg. no. 21136/4] 

Kommandantur-Unterkünfte / 駐屯地官舎 1942年12月14日付図面56A
縮尺 1:100

  • Kellergeschoß / 地下      
  • Erdgeschohß / 地上階      
  • Oberscharführer / 親衛隊曹長     
  • Durchfahrt / 通路

地下1階及び地上1階の平面図(VII区画の位置を示す縮尺1:2000の状況図を含む。
1階は42名のSS下士官を収容する予定だった。  

 

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資料7
[PMO Neg, no. 2/13616] 

Kommandantur-Unterkünfte / 駐屯地官舎
1942年12月14日付の図面61 A
縮尺 1:100

  • Westansicht / 西面図
  • Ostansicht u. Schnitt C-D / 東側立面図とC-D断面図

VIII区画の西側と東側の眺め。
この建物には、約百人のSS下士官が収容される予定であった。  

 

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資料8
[PMO neg. no. 21136/2] 

Kommandantur-Unterküfte / 駐屯地官舎
1942年12月14日付の図面64A
縮尺 1:100

  • Westansicht / 西面図       
  • Ostansicht / 東面図

セクションVIIIを延長したセクションIXの西側と東側の眺め。
セクションIXには94名のSS下士官と部下が収容されることになった。 

 

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資料9
[PMO neg. no. 21136/3] 

Kommandantur-Unterkünfte / 駐屯地官舎
1942年12月14日付図面62A
縮尺 1:100

  • Kellergeschoß / 地下      
  • Erdgeschoß / 地上階      
  • Hauptscharführer, Oberscharführer / 曹長と軍曹
  • Durchfahr / 通路

セクションIXの地下部分とセクションIXとXの一階部分の図面、[sic]を含む。

 

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資料10
[PMO neg. no. 21136/1]

Kommandantur-Unterkünfte / 駐屯地官舎
1942年12月14日付図面65A
縮尺 1:100

  • Kellergeschoß / 地下      
  • Dachgcschoß / 屋根スペース      
  • Ostansicht / 東面図      
  • Westansicht u. Schnitt E-F / 西側立面図とE-F断面図

地下部分と屋上空間の図面、X部の西側と東側の図面。
セクションXには52人のSS隊員が収容される予定だった。


新駐屯地司令部北棟の総収容人数は約350人の予定であった。しかし、戦争はこのような中世のSSの夢を無に帰すことになった。ビルケナウでは、城は囚人と同じ木造の小屋になったが、囚人の生活環境が筆舌に尽くしがたいほど悪かったのに比べ、彼らの生活環境はまともだったという点で大きな違いがある。

 

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資料11
[PMO neg. nos. 10265 and 20588]

Verkehrsplan und Struktur-Skizze zum Bebauungsplan fur die Stadt Auschwitz /
アウシュビッツ都市開発計画のための交通計画および土地利用スケッチ
縮尺 1:25000
1942年10月作図 

図面内文字の翻訳
(上から下へ、左から右へ)

Erläuterung / 説明

  • Reichsbahn / ドイツ帝国鉄道
  • Reichsfraße / 幹線道路
  • Landstraße I. Ordnung / 主要道路
  • Landstraße II. Ordnung / 二次道路
  • Wasserstraße / 水路
  • Vorhandene Bebauung / 既存の建造物群
  • Altstadt / 旧市街地
  • Siedlungsgelände / 小規模世帯
  • Heimsiedlung / 住宅地
  • Gewerbe und Industrie / 貿易・産業
  • Wald / 森
  • Teich / 池
  • Freiflächen / オープンスペース
  • Stadtgrenze / 町域境界
  • Nach Kattowitz / カトヴィッツ
  • Nach Dzieditz / チェホビツェへ
  • Weichsel / ビスワ川

Blatt Nr. II / シートNo. II
GEHEIM / 極秘

Breslau / Auschwitz im Oktober 1942 / 1942年10月、ブレスラウ・アウシュビッツ(署名不詳)
Sonderbeauftragter für den Bebauungsplan der Stadt Auschwitz / アウシュビッツの都市開発計画のために特別に依頼されたもの      

 

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資料12
[PMO neg. no.. 20587] 

Wirtschuftsplan für den Bebauungsplan Jar Stadt Auschwitz /
アウシュビッツの経済活動マップ、都市開発計画
Maßstb / 縮尺 1:10000
1942年9月作図 

図面内文字の翻訳
(上から下へ、左から右へ)

GEHEIM / 極秘

  • Blatt Nr. III / シートNo. III

Erläuterung / 説明

  • Ackerflächen / 耕作地
  • Wiesen / 牧草地
  • Gärten / 野菜園
  • Dauerkleingärten / 小規模な果樹園
  • Friedhof / 墓地
  • Forsten / 森林
  • Offentl. Erhohlungsflächen / 公共のレクリエーション施設
  • Wasserlaute u. Flächen / 水路・プール
  • Landwirtsch. Siedlungsflächen / 農耕地集落
  • Kleinsiedlungsflächen / 小作農地
  • Wohnflächen / 住宅地
  • Gewerbeflächen / 商圏
  • Industrie / 産業分野
  • Eisenbahnen / 鉄道
  • Reichstraßen / 幹線道路
  • Straße I. Ordnung / 主要道路
  • Andere Verkehrsstraßen / その他の道路
  • Radwege / サイクルコース

Geplante Stadtgrenze / 計画的な町域の境界

  • Vorschlag des Regierung / 政府による提案
  • Vorschlag des Planverfassers / 企画者による提案
  • Amtsbezirk KL (Vorschlag SS) / 強制収容所の管轄区域(SSの提案)
  • Umgrenzung des Plangebietes / 計画区域の画定
  • Deiche / 堤防
  • Hochspannungsleitung / 高圧線
  • Drahtseilbahn / ケーブル鉄道
    Grenze nach der Verhandlung 23/9/42 / 1942年9月23日のヒアリング後の境界線

Breslau / Auschwitz im Sept 1942 / 1942年9月、ブレスラウ・アウシュビッツ
(署名不明)
Sonderbeauftragter für den Bebauungsplan der Stadt Auschwitz /
アウシュビッツの都市開発計画のために特別に依頼されたもの

 

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アウシュビッツ地域の産業計画のかなりの部分は、戦争に必要不可欠であったため、実際に実施された。一方、強制収容所やSSコロニーのような、より「美的」な開発は、ユダヤ人の絶滅によって中止され、その時々の経済的優先順位の最も低いものに追いやられ、実現しなかった。文書がないにもかかわらず、残された図面のおかげで、SSによるオシフィエンチムの植民地化の全体像をはっきりと見ることができる[資料を参照]。親衛隊は、自分たちの世界観を表現するために、文書よりも図面や絵を好んで使ったという。この点では、「Bauleitungen」とその製図所の規模や重要性が雄弁に物語っている。図面は、彼らの考えを具体的に表現することを可能にし、誰にでも理解できる精密な表現となった。一方、文章はたとえ詳細であっても、個人の解釈の余地があり、ある種の曖昧さが残るため、図面のように明確で再現性のある結果を出すことはできない。

親衛隊がアウシュビッツ一帯で何を計画していたかを知ると、こう問うことができる。

  1. プロジェクト、特にSSのための建物と豪華な兵舎に沿った町全体の組織を実現することが、物質的に可能であったかどうか。もし、1942年に戦争が枢軸国側に有利になり、早く勝利していたら、強制収容所制度を強化する代償として、建物を建設し、完成させることができただろうが、囚人労働をもっと「惜しみなく」使うことで、それまでの「3ヶ月の奴隷労働とその後、煙突!」という制度は終わりを告げることになるのだろう。当初、アウシュヴィッツの初代収容所長ヘスは、この解決策に大賛成であった(主に効率的な理由からであることは間違いない)が、彼の努力はまず第一に、他のSSが囚人を不当に扱うシステムを確立していたために彼のやり方を理解せず、次に、彼が受けた無意味な命令と全般的状況の圧力によって実行不可能となり、無駄なものとなってしまった。
  2. 親衛隊がモデルコロニーで提供した社会的進歩とは? その答えは、千年前の社会秩序への回帰である。SS貴族、つまり(モーターで動く)輝く鎧に身を包んだ新しい騎士が、囚人やその他の身分の低い農奴を支配する新封建社会の設立である。そのような社会では、ストレスが強く、遅かれ早かれ爆発的になるだろう。現代の「農民一揆」が勃発し、常に潜在的な危機感を抱いていた体制は、内部から弱体化し、崩壊していただろう。SSが描いた未来像は、単なるユートピアだった。

第二次世界大戦に勝利したドイツがどうなっていたかを分析する試みは他にもあり、そこではSSの立場が支配的であったろう。アルベルト・シュペーアは『Der Sklavenstaat』(奴隷国家)の中で、その展望を述べている。東方の「植民地化」は、本質的に大規模な工事と巨大な建設計画として定義され、シュペーアの計算によれば、2900万人の捕虜の命を犠牲にし、それぞれが24個中隊で4800人からなる「SS建設旅団」で文字通り死ぬまで働かされたのである。この人たちは、強制収容所から供給されたのだろう。「Ostraum/東部地区」は、高速道路が縦横に走り、主要な交差点には1万5千人から2万人の町があり、純粋なドイツ系農村人口に


資料13
[PMO neg. no. 20589] 

Gemeinnchafthaus der NSDAP Auschwitz für die Bereitschafts-Siedlung dar IG Farbenind. /
アウシュビッツNSDAP / IGファルベンインダストリ労働者地区のための[ナチス党]コミュニティセンター
Blatt Nr. VI / シートNo VI J
Auschwitz 1941年10月4日
ザ・アーキテクト(署名不明)

 

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囲まれた植民地化地域となったであろう[1942年8月17日のSS本部Gベルガーからヒムラーへのメモ(Ba NS 19 / new 1704)]。欧州交通の重要性は、『シグナル』誌[1941年10月第2号、41〜45ページ]の「国境のないヨーロッパにおける国際交通」という記事で、すでに強調されていたのである。

その他、元武装親衛隊の将校でレックスの責任者であるベルギー人のレオン・デグレルが、『Hitler pour 1000 ans』(Editions de la Table Ronde, Paris 1969)で、ヒトラーが見た東方を熱く語っている(212ページと213ページ)。

巨大な運河がヨーロッパのすべての大河を結びつけ、セーヌ川からヴォルガ川ヴィスワ川からドナウ川まで、すべての船に開放するのだ。4mゲージの高架鉄道を走る2階建ての列車は、東方の広大な領土を容易にカバーすることができるのである。そこでは元兵士(武装親衛隊)が世界で最も近代的な農場と産業を建設していたことであろう。

しかし、「スラブ人に対するドイツ人の態度はどうなのか?」と問わない人はいないだろう。デグレルはその答えを知っている[217ページ、218ページ]。 

ナチスの理論家たちは、激しく反スラビア的な理論を公言していた。10年にわたるロシア―ドイツの相互浸透に抵抗することはなかっただろう。男女を問わず、ロシア人はすぐにドイツ語を覚えたことだろう。すでに知っていることが多いのだ。 [1941年から42年にかけてのロシア遠征では]、すべての学校にドイツの教科書があった。ロシアでは、ヨーロッパのどこよりも早く言語のつながりが確立されたことだろう。

「ドイツ人は技術者としても組織人としても立派な資質を持っている。しかし、夢想家であるロシア人の方が想像力が豊かで、頭の回転が速い。一方が他方を引き立たせていたはずである。あとは血のつながりでどうにでもなる。若いドイツ人は、当然のことながら、そしてプロパガンダがどうであれ、何十万人ものロシア娘と結婚しただろう。彼らは彼らを気に入り、東洋のヨーロッパの創造は、最も楽しい形で完成したことでしょう。ドイツとロシアの連合は大成功を収めたことだろう。

「そう、1億人のヨーロッパ人を束ねるという大問題があったのだ。

シュペーアーの「予測」やデグレルの「ビジョン」に基づいて、提案された開発とその対価を評価するかしないかは、個人の哲学によって自由である。

逆説的だが、デグレルの夢は、シュペーアの不吉な計算よりも具体的なものに見える。これは、二人の性格の違いによるものである。シュペーアは、無類の官僚であり、少なくとも1年間は帝国の武装抵抗を拡大させた驚くべき組織者であったが、デグレルのような「民衆の指導者」としての資質は持ち合わせてはいなかった。戦前から、ベルギー人はヒトラーと一対一で接していた。両者とも同じように、演説だけで服従させ、支配し、操ることができる未来像を群衆に押しつける空想家だったからだ。彼らは個性を消滅させるほどの説得力を持っていた。この種の力は、この種の人間を、魅力的で揺るぎない献身を命じることはできても、民主主義国家にとって危険な存在にしている。ヨーロッパを完全に掌握した勝利のドイツでは、デグレルは1941年にヒトラーに精神的な息子と指名された後、大西洋岸からウラル山脈まで広がる全体主義の親衛隊帝国のトップに立つ可能性が高かっただろう。彼は前任者の東方での仕事を引き継いだのだろう。デグレルは、自動車も運転できないなど、当時の文明には適応できないが、そのような些細なことにこだわらず、自分の役割は、何百万人ものヨーロッパ人の意思をコントロールする原動力であると同時に、自分が見た未来の方向へ彼らを導くガイドであると考えていた。彼は、仕事の組織、活用しなければならない物質的・人的資源、作成すべきプログラムには関心がなかった。それは、他の人、つまりシュペーアのような高度な技術者の仕事であった。しかし、カトリックの信徒であるデグレルは、2900万人の犠牲者を出した東部地域の植民地化という、法外な費用と宗教的信念に反したやり方を許すはずもなく、受け入れることもできなかっただろう。第二次世界大戦中に絶滅させられた何百万人ものユダヤ人は、そのような騒ぎを起こしたが、さらに2900万人の死は無視されず、さらに大きな抗議の嵐を巻き起こしたことだろう。シュペーアの試算は、SSの本物の資料に基づいているとはいえ、非現実的である。デグレルは、東方で「文明開化の使命」を果たすために、強制力を伴うとはいえ、何か別の方法を見つけたか、あるいは見つけさせたはずだ。

しかし、武器の運命はそうではなかった。

* * *


資料14
[PMO neg. no. 200586] 

Zum Bebauungsplan für die Stadt Auschwitz Gestaltung des Parteiforums in der Neustadt-Ost /
アウシュビッツの都市開発計画について 新市街、東部地区での党フォーラムの構成。
縮尺 1:5000
1942年12月作図

図面内の文字の翻訳

  • Südseite / 南立面図
  • Nordseite / 北立面図
  • Ostseite / 東立面図
  • Westseite / 西立面図

Blatt Nr VI F / シートNo VI F
Breslau/Auschwitz December 1942 / 1942年12月、ブレスラウ・アウシュビッツ
ザ・アーキテクト(署名不明)
Sonderbeauftragter für den Bebauungsplan der Stadt Auschwitz /
アウシュビッツの都市開発計画のために特別に依頼されたもの  

 

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資料15
[PMO neg. no. 10266]

戦時中にSSが作成したアウシュビッツ旧市街の再開発計画を示す模型。

このモデルのメインストリートは、ソラ川にかかる現存する唯一の橋(左手前)から続く現在の「Jaroslava Dabrowskiego」である。旧市街(中心部)は大きな変化もなく、戦前と同じような構成になっている。城はマウンドの上に残っている(左手前)。一方、城から50メートルほど離れた、同じ道路側にある「輝ける聖母マリア教会」は取り壊されることになった。党フォーラム[資料14]は、タウンセンターを過ぎて大通りの右側にある。シート VI F の図面と比較すると、モデル上の部品は簡略化されており、不完全なものである。


資料16:
[PMO neg. no. 10267]

アウシュビッツの街の一角を再開発した、戦時中にSSが作った別の模型の部分図。

模型の等高線から判断すると、この地区は街の南側に位置する可能性が高い。